アスファルトに刻むゴースト
──平成0x29A年04月04日 05:40
トラックのエンジンを切って、もう三時間になる。
夜明け前の埠頭は、ナトリウムランプのオレンジ色にぼんやりと照らされている。潮の匂いと、オイルの匂いが混じって、俺の肺を満たした。
『まだか、譲』
脳内に、親父の声が響く。俺のエージェント、鈴木剛。三年前、この同じような埠頭でハンドルを握ったまま逝っちまった、元長距離ドライバーだ。
「まだだよ。第0x5C11A内閣ユニットと第0x9B03F内閣ユニットの管轄境界で、また署名が弾かれてる」
ダッシュボードに置かれた携帯端末が、赤い警告を点滅させている。承認保留。理由は『ドクトリン整合性チェック未了』。いつものことだ。
カーボンクレジット台帳の同期も遅延していて、最適ルートの再計算すら始まらない。システムってやつは、止まると本当に何もできなくなる。
『昔はな、地図一枚と勘でどこへでも走ったもんだ』
親父が懐かしそうに言う。その記憶は俺の中にも流れ込んでくる。紙の地図のざらついた手触り、缶コーヒーの甘ったるい味、夜通し聞いたラジオのノイズ。
『この荷物、そんなに大事なもんか』
「らしい。なんでも文化財指定の申請中だとか」
荷台に積んでいるのは、厳重に緩衝材で梱包された、古いゲーム機とテレビ。たしかプレイステーション2とか言ったか。それに、分厚いブラウン管のテレビ。なんでそんなガラクタを、夜明け前に叩き起こされて運ばにゃならんのか。
ピ、と通信が入る。耳にねじ込んだ自動翻訳イヤホンが、滑らかな合成音声で囁きかけてきた。
『配送状況はどうなっていますか?クライアントが待っています』
「こっちも待ってるんだよ。閣議決定が下りない」
『それでは困ります。約束の時間です』
一方的な要求に、舌打ちが出た。俺は通信を切り、深くため息をつく。
「親父なら、どうする」
『決まってんだろ』
親父のエージェントは、少し楽しそうに言った。
『システムの道がダメなら、アスファルトの道を走るだけだ。俺が若い頃に使った裏道がある。内閣ユニットの管轄外をかすめて走る、古い産業道路だ。もう誰も使っちゃいねえがな』
「……ナビには出てこない道か」
『ナビ様が知るかよ。俺の頭ん中だ』
俺は数秒迷ってから、シートベルトを締め直した。イグニッションキーを回す。警告を無視して、マニュアル走行モードに切り替える。
エンジンが唸りを上げた。俺はゆっくりとアクセルを踏み込む。
『よし、まずあの倉庫群を抜けろ。突き当りを右だ』
親父の声が、脳内の地図に光の線を引いていく。公式ルートを外れたトラックは、警告音を鳴らし続ける端末を置き去りにして、闇に溶けていく埠頭を後にした。
道は、親父の記憶通りだった。ひび割れたアスファルト、錆びついたガードレール。時折、AR広告の残骸がチラついては消える。
荷物は無事に届けられた。受け取りに来た男は、イヤホン越しに何度も礼を言って、チップまで上乗せしてくれた。
帰り道、空が白み始めていた。
『あの荷物な』と、親父がふと呟いた。『俺も昔、お前くらいの歳の頃、お前とやったぞ』
「……何を?」
『プレステ2だよ。レースゲームだ。お前、下手くそで、いっつも壁にぶつかってたな』
そんな記憶は、俺にはなかった。だが、親父の中には鮮明にあるらしい。ブラウン管テレビのザラついた画面、コントローラーを握る小さな手、隣で笑う若い親父の顔。
俺は何も答えられなかった。
朝日が昇る。高速道路の合流地点で、俺たちのゴーストは、無数に走る他のトラックの群れに静かに紛れ込んでいった。
『……譲』
「なんだよ」
『いつか、お前の番が来たら……息子に、この道を教えてやれよ』
その言葉は、静かに、俺のアスファルトに刻まれた。