秋のベンチと、返しそびれた音

──平成0x29A年09月19日 19:40

平成0x29A年09月19日、19:40。

公園の外灯が点き始めるころ、私はベンチ脇の「時間貸しCPU」スタンドに、折りたたみ端末を差し込んだ。金属の舌がカチ、と噛み合って、貸出中の青ランプが脈を打つ。

「一時間で十分? 延長すると家計簿が荒れるよ」

耳の奥で、父の声がした。私の近親人格エージェント――和彦、享年六十。脳梗塞で倒れて以来、こうして私の生活に口を挟む。

「大丈夫。今夜はちょっと、確認するだけ」

私は片耳だけに自動翻訳イヤホンを入れ、もう片方は外した。公園は多国の発音が混ざる。翻訳が勝手に整形してくれるせいで、みんな同じ丁寧語に聞こえてしまうのが、少し気味が悪い。

端末の画面には、自治掲示板の「町内催事の差分断片」が流れていた。次の正月の「年賀状推奨」キャンペーン。推奨、と書いてあるけど実質は手続きの入口が年賀状に寄りかかっている。

平成エミュが、そういう形で私たちを律する。

私は封筒を一つ取り出した。まだ九月なのに、年賀状の束。印刷屋からの早割が、毎年この時期に公園の端末に広告を投げてくる。ARののぼりがふわりとベンチの上に立ち、風に逆らって揺れた。

「紙の挨拶なんて、もう要らないだろ」父が言う。

「でも、要るんだよ。要らないのに」

私は苦笑して、宛名面の空白に視線を落とす。相手は――今日ここに来るはずの、ユイさん。隣の棟の人。会釈だけは何度もして、名前だけが分からないまま、翻訳イヤホン越しの挨拶ばかり増えた。

公園のスピーカーから、夕方のメロディが流れた。音質が妙に良い。誰かが近くで、ウォークマンを鳴らしているのかもしれない。懐かしい圧縮の歪みと、ストリーミングの滑らかさが同じ空気に漂う。

「ウォークマンだって。平成ごっこも大概にしろって」父が鼻で笑う。

私は、鞄の奥を探って自分のウォークマンを出した。古いカセット型。中身はカセットじゃない。今は薄いメモリを差して、曲名だけが手書き風に表示される。平成の皮をかぶった、今の機械。

再生ボタンを押すと、イヤホンの片耳からは翻訳の自動音声、もう片耳からは古いバンドのギターが流れた。二つの世界が、頭の中で勝手に混線する。

そのとき、端末が小さく震えた。

【内閣ユニット通知:第0x2C1A7内閣ユニット/差分レビュー補助依頼】
【あなたの5分枠は未割当。代理評価のみ】

私は反射で画面を伏せた。こういうのが突然来る。私が誰かの「内閣ユニット」の末端として動員されること自体は珍しくない。けれど、今日はやめたかった。

「やれば? ポイント付くぞ」父が言う。

「今日は、やらない」

父は黙った。代わりに、外灯の下の虫がひとつ、私の手元に落ちてきた。

公園の入口で、人影が立ち止まった。白い袋を抱えている。コンビニのロゴ。彼女――だと思う。

私は立ち上がり、年賀状の束を鞄に戻そうとして、結局、一枚だけ抜き取った。宛名の空白のまま。

彼女が近づく。自動翻訳イヤホンが、相手の言葉を先回りして整える。

「こんばんは。お疲れさまです」

音声はきれいすぎて、彼女本人の声の癖が消えている。私は、片耳のイヤホンを外した。

「……こんばんは」

生の声は、少し低くて、笑うと息が混じった。

「それ、年賀状ですか?」

「うん。早いよね。なんか……手続きが、紙を要求してきて」

彼女は肩をすくめて、袋を揺らした。「私も。来月、町内の登録更新が年賀状経由って言われました」

二人で笑った。笑いながら、私はベンチ横の時間貸しCPUを見た。貸出ランプが青く点滅し、残り時間の数字が冷淡に減っていく。

「ねえ」私は、空白の年賀状を差し出した。「これ、宛名……書いてもいい?」

彼女は一瞬、きょとんとして、次に目を細めた。

「私の名前、知ってたんですか」

「知らない。だから……教えてほしい」

父が、耳の奥で小さく咳払いをした。たぶん笑っている。

彼女は袋からペンを取り出した。やけに古い、キャップ式のボールペン。平成エミュの小道具みたいに。

「由衣。漢字は、これ」

彼女が書く。紙の上を走る音が、ウォークマンのギターと重なった。

私はその筆跡を見て、言ってしまった。

「翻訳イヤホン、外した声のほうが好きです」

外灯が、少し明るくなった気がした。由衣さんはペン先を止めて、私の顔を見た。

「……じゃあ、次から外して話します」

時間貸しCPUの青ランプが、ちょうど消えた。端末が静かに排出され、冷たい夜気が指先にしみた。

私は、宛名の入った年賀状を一枚だけ握りしめたまま、公園の出口へ歩き出した。正月はまだ遠いのに、なぜかもう、届いた気がした。