点検口の向こうで鳴るMD

──平成0x29A年11月05日 11:00

平成0x29A年11月05日、11:00。

メタバース広場の床下に潜り込むと、空調の風がやけに生ぬるい。現実の広場は駅前の再現で、上では「待ち合わせの定番」みたいな顔をした噴水が、循環水を無駄に跳ねさせている。仮想のほうはもっと派手で、広告が空に貼りついて離れない。

私は保守契約の点検員だ。点検口の縁に工具袋を引っかけて、胸ポケットのMDプレーヤーを再生する。イヤホンは片耳だけ。もう片方は、現場の音を聞くため。

「それ、まだ動くのか」

耳の奥で、父が笑う。近親人格エージェント。生前は同じように地下を回っていた。

「動く。サブスクのほうは、今月また値上がりした」

「なら節約しろ。……あ、決済通知来たぞ」

視界の隅に、薄いウィンドウ。
《定期購読:広場空間保守パック/自動更新 -1,280》

床下で汗をかきながら、メタバースの“床面演出”を維持するためのサブスク決済が落ちていく。平成っぽい節約術の話をしながら、平成っぽくない金の抜かれ方をしている。

点検台の横には紙のカレンダーをクリップで留めてある。各ブロックの点検周期はクラウドにもあるのに、父が「紙が一番間違えない」と言って、毎年くれる。

今日の欄には赤ペンで、こう書いてある。
「広場床下:ユニット投票ライン点検」

投票ライン。つまり、内閣ユニットへ政策変更リクエストが流れ込む経路だ。

私は配線束のタグを一つずつ指で追う。ケーブルの被覆が少しベタついている。熱。

そのとき、胸の端末が震えた。

《あなたは第0x29A-402-8F3内閣ユニット/レビュー補助に選任されました(5分)》

「来たな」父が言う。妙に落ち着いている。

「現場で?」

「現場で来るのがこの国だろ」

端末に、差分断片が一枚だけ浮かぶ。

《政策変更リクエスト:メタバース広場“待ち合わせ演出”の常時点灯を停止し、節電モードへ移行》
《差分影響:夜間の混雑分散が不確実/広告収益-3.1%》
《付帯:現行ドクトリン署名が必要》

私は思わず、点検口の外――現実の噴水を見上げた。昼の光の中で、水だけが古い約束みたいに跳ねている。

父が小さく咳払いする。

「お前の仕事は、電気を生かすことじゃない。人を帰らせることだろ」

「でも、停止したら……」

「待ち合わせが減る、って?」

父の声が、少しだけ柔らかくなる。

「昔はな、光がなくても会えた。紙のカレンダーの裏に時間書いて、駅前の時計の下って決めて。それで十分だった」

私は紙のカレンダーを見た。裏は確かに、去年のメモがびっしりだ。父の字で、点検時間と、たまに短い買い物リスト。

端末が催促する。
《承認/非承認 残り 02:11》

画面の隅で、ドクトリン署名の検証バーが揺れている。最近はみんな、署名が通る通らないの癖を知っている。半分は運で、半分は“空気”だ。

私は配線束を押し上げ、発熱しているリレーのカバーを外した。焦げた匂いがする。節電モードのリクエストが、ただの節約じゃなくて、故障の前触れでもあることを、現場の鼻は知ってしまう。

「非承認にすれば、今夜も点け続ける。たぶん壊れる」

「承認にすれば、暗くなる」

父が言う。

「暗いのは、怖い。でも、壊れるよりはいい。壊れたら、二度と戻らない」

私はMDプレーヤーの音量を一段だけ上げた。細いドラムの音が、床下の鉄骨に触れて、遠い夏みたいに響く。

指先で、承認を押す。

《承認しました》
《署名検証中……》

一拍。

《ドクトリン署名:通過》

「通ったな」父が息を吐く。

同時に、上のメタバース広場の照明演出が、昼間なのに一瞬だけちらついた。現実の噴水の水音が、やけに大きく聞こえる。

私はリレーを予備品と交換し、熱の逃げ道を作ってカバーを戻した。点検台に戻り、紙のカレンダーの今日の欄に、青で追記する。

「節電モード承認 11:03」

父が言う。

「お前、字が俺に似てきたな」

「似たくない」

「似るさ。遺伝子とかじゃなくて、手癖だ」

点検口から這い出ると、現実の広場のベンチで、制服の子が二人、ガラケーみたいな端末を並べて何か見せ合っていた。片方の画面には、サブスクの解約手順。もう片方の上には、ARで“待ち合わせ演出停止のお知らせ”が貼り付いている。

噴水の前の影が、少し長くなったように見えた。

耳の中のMDが、曲の最後で小さくノイズを噛む。

父が静かに言う。

「暗くても、人は会える。壊れなきゃ、また点けられる」

私は工具袋の重みを確かめて、次の点検先の紙のカレンダーを指でなぞった。たった五分の承認が、広場の夜を少しだけ静かにして、壊れるはずだった何かを一つ先延ばしにした。

それだけで、今日は十分だと思えた。