アフロ犬の閣議決定

──平成0x29A年10月19日 16:20

壁に掛けられたアナログ時計が、カチ、カチと無機質な音を立てている。平成0x29A年10月19日、16時20分。この研究所の時間は、いつもこの音に支配されていた。

「遥斗くん、またその顔。眉間にシワが寄ってるよ」

視界の右隅、AR(拡張現実)のレイヤー越しに、亡き妻の恵が苦笑いを見せた。彼女のパーソナリティを移植した近親人格エージェントは、生前よりも少しだけ辛口になっている気がする。

「分かってる。だが、このeペーパーの更新が止まったままだと、明日の高分子合成実験が始められないんだ」

私は手元のeペーパー端末を軽く叩いた。画面には『党ドクトリン署名:完了』の文字が緑色に点灯している。第402ヘゲモニー期の複雑なアルゴリズムは、すでに私の新素材配合案を「社会安定に寄与する」と判断し、暗号化された承認を下していた。しかし、この第8研究ブロックには、それより優先される「非公式ルール」が存在する。

私は席を立ち、省人化レジで買ったばかりのカップ麺を啜っている所長のデスクへ向かった。所長は平成エミュレートの熱心な信奉者で、デスクには1990年代末に流行した『アフロ犬』のストラップ付き印鑑ケースが鎮座している。

「所長、アルゴリズムの署名は通っています。この配合案に、例の『承認』を」

所長は麺を飲み込み、面倒そうにアフロ犬のケースから、すでにインクの切れたシャチハタを取り出した。そして、私のeペーパー端末の物理的な隅に、ポン、と音を立てて空押しした。この研究所では、所長が「物理的に」判子を押す仕草を見せない限り、誰も次の工程に進んではいけないことになっている。アルゴリズムよりも、この平成的な「手触り」こそが組織を繋いでいるのだと所長は信じている。

その時、視界が真っ赤な通知で埋め尽くされた。

【緊急:第0x8C2F内閣ユニット 内閣総理大臣に選出されました。任期:300秒】

「嘘でしょ。このタイミングで?」恵が驚いた声を上げる。

全身にアドレナリンが駆け巡った。5分間だけ、私はこの国の、あるいはこのユニットの絶対権力者になる。私は即座に、脳内インターフェースを通じて党中央ドクトリンへの差分リクエストを生成した。ターゲットは「第8研究ブロックにおける非公式な承認儀式の即時撤廃」だ。

「遥斗くん、やめなよ。アルゴリズムがどう判断するか……」

恵の制止を無視し、私は総理権限の暗号署名を叩き込んだ。社会安定を乱す非合理な習慣を、ドクトリンの深層から書き換えてやる。これでアフロ犬の呪縛から解放されるはずだ。

300秒はあっという間に過ぎ去った。権限が消滅し、世界は元の静寂に戻る。所長は相変わらずカップ麺のスープを飲み干している。

「……あれ?」

私のeペーパー端末が、今まで聞いたこともない壮厳な電子音を鳴らした。画面には、新しい閣議決定の通知が表示されている。

『第402ヘゲモニー期・第8552号通達:平成エミュレーションの深化に鑑み、第8研究ブロックの「物理印影プロセス」を、国家重要無形文化プロトコルとして正式採用する。今後は、所長の判子に加え、皇室遺伝子ネットワークによる微弱な生体認証をトリガーとし、インスタントラーメンの景品(アフロ犬等)を聖遺物として登録。承認手続きは従来の3倍の工程を要するものとする』

「……やったね、遥斗くん。伝統が守られたよ」

恵の楽しそうな声が響く。壁のアナログ時計が、嘲笑うように一秒を進めた。私は、公式に「聖遺物」に昇格してしまったアフロ犬のストラップを、ただ呆然と見つめるしかなかった。