現像袋の中のデジタル円

──平成0x29A年 日時不明

俺の名前は伊藤健。三十一歳。この第十四地区の集合住宅で管理人をやっている。

今朝も六時前に起きて、エントランスの掃示板を確認する。住民向けの通知が三件。内閣ユニットからの政策変更リクエストが二件。どれも些細な差分ばかりだ。イヤホンから聞こえる声は、亡き父・伊藤正夫のものだ。元は市役所の窓口職員で、享年五十九。

「健、今日は可燃ごみの日だぞ。九時までに集積所の施錠を確認しろ」

父のエージェントは几帳面で、俺の仕事を細かく補佐してくれる。俺はポケットから折りたたみ携帯を取り出し、集積所の鍵管理アプリを開く。画面には90年代のiモード風UIが表示され、その上にARで「施錠済」のマークが浮かぶ。平成エミュのせいで、古いインターフェースと最新技術がごちゃ混ぜになっている。

郵便受けを開けると、写真の現像袋が一つ入っていた。差出人は四〇三号室の住民、田中さん。中身を確認すると、フロッピーディスクが一枚挟まっている。現像袋の裏には手書きで「管理人さんへ。これ、デジタル円ウォレットのバックアップです。よろしく」と書かれていた。

「おいおい、また田中さんか」

父のエージェントが呆れた声を出す。

「フロッピーにウォレット情報を入れるなんて、セキュリティ的にどうなんだ」

「知らねえよ。でも平成エミュだと、こういう混線が日常だろ」

俺は現像袋を持って四〇三号室へ向かう。エレベーターは動かない。いつものことだ。階段を上りながら、イヤホンから父の声が続く。

「健、お前もそろそろ倫理検査の時期だぞ。代理エージェントになる前に、やることリストを整理しておけ」

「わかってる」

四階に着くと、廊下の奥から子どもの笑い声が聞こえる。四〇三号室のドアをノックすると、田中さんが出てきた。六十代後半の女性で、いつも穏やかな笑顔を浮かべている。

「あら、管理人さん。ありがとうございます」

「田中さん、これ……本当にデジタル円のバックアップですか?」

「ええ。息子が教えてくれたの。フロッピーに保存すれば安全だって」

俺は言葉を失う。フロッピーディスクは磁気メディアで、寿命が短い。デジタル円ウォレットのバックアップには不向きだ。

「田中さん、これ……ちょっと危ないですよ。フロッピーは壊れやすいし、磁気が飛ぶと中身が消えます」

「そうなの? でも、息子がこれでいいって」

俺は田中さんの息子を知っている。三十代半ばで、内閣ユニットの下請けをやっている。平成エミュの影響で、古い技術と新しい技術の境界が曖昧になっている世代だ。

「田中さん、ちょっと待っててください」

俺はポケットからエッジAI端末を取り出す。手のひらサイズの黒い箱で、ローカルで暗号処理ができる。フロッピーディスクを端末に接続し、中身を読み取る。データは無事だった。

「田中さん、これ、俺の端末にバックアップ取っておきます。フロッピーはもう使わないほうがいいです」

「ありがとう。助かるわ」

田中さんは安心した顔で現像袋を受け取る。その中には、孫の写真が何枚か入っていた。

階段を下りながら、父のエージェントが言う。

「健、お前、優しいな」

「別に。管理人の仕事だろ」

「そうか。でも、こういう小さな救いが、この世界を回してるんだと思うぞ」

俺はイヤホンを耳から外し、ポケットにしまう。エントランスに戻ると、朝日が差し込んでいた。掲示板の通知を一つ一つ確認しながら、俺はまた今日も、この集合住宅の日常を守っていく。