夕暮れのクリックホイール
──平成0x29A年03月20日 17:30
「だから、広場に入れないんですよ。私のアバターだけが、どうしても……」
受話器の向こうで、老婆のかすれた声が震えている。僕の視界の隅では、兄さんが呆れたように肩をすくめる半透明のAR映像が浮かんでいた。
『またiPod系の同期エラーか。あの世代の認証プロトコル、脆すぎるんだよな』
兄さん、こと僕の近親人格エージェントである三田村拓也は、生前と変わらない皮肉っぽい口調で分析をよこす。僕は「少々お待ちください」と老婆に断りを入れ、コンソールの輝度を上げた。
第12通信ブロック、市民データ同期センター。それが僕の職場だ。ここでは、平成エミュレーションが生み出した歪みの尻拭いが、日々の業務だった。古いデジタルデバイスに紐付けられた個人データを、現行の統治システムに再同期させる。気の遠くなるような作業だ。
今回の依頼主は、メタバース広場「たまり場08」の常連らしい。彼女の古いアバターは、今は亡き夫と初めて撮ったプリクラのデータを核にしているという。そしてその認証キーが、物理的に劣化したiPodのストレージに焼き付いているのだ。
『プリクラねえ。懐かしいな、聡。昔、お前とゲーセンで撮ったよな。変なラクガキしてさ』
「……今は仕事中」
小声で兄さんをたしなめながら、僕は手動でのデータサルベージを開始する。絡まった糸を解くような、繊細なコマンドの連続。コンソールの排熱ファンが悲鳴を上げ始めた。
その時、オフィスの窓をコツンと叩く音がした。見れば、小型の配達ドローンがホバリングしている。新しい冷却ユニットだった。兄さんがサインすると、ドローンは静かに飛び去っていった。
「……認証キーの抽出、成功。あとはアバターデータとの再リンクを……」
集中が頂点に達した瞬間、視界の右上にポップアップ通知が割り込んできた。
【通達:第0x3C89A内閣ユニット 内閣総理大臣に任命されました。任期は5分です】
舌打ちしそうになるのをこらえ、僕は閣議案件を開く。そこには、僕の仕事そのものを否定するような一文が記されていた。
【案件:旧世代パーソナルデバイス向けデータ同期プロトコルの維持予算の段階的縮小について】
ドクトリンの推奨は、当然「承認」だ。非効率なインフラは切り捨てる。それが、この三百年間「党」が導き出した最適解なのだから。アルゴリズム署名も、緑色の光で承認を促している。
『おい、聡。これ、承認したらあのばあさんのデータ、もう二度と戻せなくなるぞ』
兄さんの声が、いつになく真剣だった。
『メタバースのプリクラなんて、ただのデータじゃねえか。そう思うか?』
僕は黙ってコンソールを見つめる。老婆が言っていた。「夫がね、ラクガキしてくれたんですよ。へたくそな字で、『ずっと一緒』って」。
『覚えてるか? 俺が事故った時、お前に託したiPod。あれ、まだ持ってるだろ。中身、消えちまったら悲しいよな』
脳裏に、兄の部屋の引き出しにしまい込んだ、白いデバイスが浮かんだ。クリックホイールの滑らかな感触。イヤホンから流れた、少し音割れのしたギターロック。
僕は、ため息をひとつついてから、震える指で「非承認」のパネルに触れた。赤い警告灯が一瞬点滅したが、暗号化署名は、あっさりと通過した。
五分後。僕は再び、ひとりのエンジニアに戻っていた。
それから三十分ほどかけて、僕は老婆のアバターデータを完全に修復した。電話口で泣きながら感謝する声を聞きながら、僕はただ、静かに受話器を置いた。
仕事を終え、誰もいなくなったオフィスで、僕は自分のデスクの引き出しを開ける。そこには、兄の形見のiPodが眠っていた。そっと手に取り、クリックホイールを回す。
カチ、カチ、カチ。懐かしい操作音。
イヤホンを耳に当てると、兄さんが好きだったバンドの、少しノイジーなイントロが流れ始めた。それが僕にとっての、今日の小さな救いだった。