教室の欠番
──平成0x29A年 日時不明
平成0x29A年3月12日(水)
業務日誌抜粋
私は今年で教員三年目。市立第三中学校の社会科教諭、岸本綾子だ。
本日午前十時、二年三組の公民の授業中に、生徒の一人が内閣総理大臣に任命された。
机の引き出しの中で折りたたみ携帯がぶるぶると震えて、岩崎雄斗が慌てて取り出した。画面を見た瞬間、彼は硬直した。
「先生、すみません、五分だけ」
声が裏返っている。十五歳の少年が、第0x2A7F9内閣ユニットの総理大臣になった瞬間だった。
クラスメイトたちは笑い出した。
「またかよ雄斗」
「今月二回目じゃん」
私は授業を止めて、雄斗の席まで歩いた。彼は折りたたみ携帯の小さな画面を凝視しながら、必死に政策変更リクエストをスクロールしている。
「落ち着いて。ゆっくり読んで」
私は彼の肩に手を置いた。
雄斗の携帯は祖父の形見だ。亡き祖父・岩崎重雄(元中学校教諭、享年73)の人格エージェントが入っている。画面の端に、祖父の顔写真アイコンが点滅している。
「じいちゃん、この承認ボタン、どっち押せばいいの」
雄斗が小声で尋ねる。エージェントの返答は音声ではなく、画面にテキストで流れた。
『落ち着け雄斗。まず署名アルゴリズムを確認しろ』
署名アルゴリズム。党ドクトリンに基づく暗号化された承認手続きだ。
私は教卓に戻り、自分のスマートフォンを取り出した。職員室の共有型バッテリーから充電したばかりで、画面が明るい。私のエージェント——亡き姉・岸本奈津美(元システムエンジニア、享年29)——がすぐに応答した。
『綾子、雄斗くんの署名、エラー出てるよ』
姉の声が、イヤホンから聞こえた。
「え?」
『彼の端末、古いガラケーでしょ。最新のドクトリン署名アルゴリズム、対応してないんだと思う』
私は雄斗の席に戻った。
「雄斗、署名が通らない?」
「はい……何度押しても、エラーって出ます」
彼の携帯画面には、赤い「署名不一致」の文字が点滅していた。
祖父のエージェントが、また画面にテキストを流す。
『古い端末だからな。仕方ない』
「じいちゃん、どうすればいいの」
『諦めろ』
クラスメイトたちが、また笑い声を上げた。
私は教卓に戻り、自分の通帳を取り出した。銀行の通帳だ。平成的生活様式の一環で、私たちは未だに紙の通帳を使っている。最後のページに、手書きで暗号キーが書き込まれている。
姉が私に教えてくれた、非公式の解読キーだ。
「雄斗、こっちに来て」
私は雄斗を教卓に呼び、通帳のページを見せた。
「このキーを入力して。署名を手動でバイパスできる」
雄斗は目を丸くした。
「先生、それって……」
「いいから。五分しかないんでしょ」
彼は震える指で、折りたたみ携帯の小さなボタンを叩いた。キーを入力し、承認ボタンを押す。
画面が一瞬、緑色に光った。
「通りました!」
教室に拍手が起きた。
私は通帳をしまい、授業を再開した。
午前十時五分、雄斗は総理大臣の任期を終えた。彼は席に戻り、折りたたみ携帯を引き出しにしまった。
授業後、職員室に戻ると、教頭が待っていた。
「岸本先生、ちょっといいですか」
彼は手元のタブレット端末を見せた。画面には、私の署名バイパス記録が表示されていた。
「これ、まずいですよ」
教頭の声は低い。
「党ドクトリンの迂回行為です。記録に残ります」
私は黙って頷いた。
「でも、生徒が困ってたので」
「それはわかりますが……」
教頭はため息をついた。
「まあ、今回は見逃します。でも、次からは気をつけてください」
私は職員室の自分の席に戻り、共有型バッテリーにスマートフォンを接続した。充電ランプが点滅する。
姉のエージェントが、またイヤホンから囁いた。
『綾子、あのキー、もう使わない方がいいよ』
「わかってる」
『党ドクトリン、もうすぐ終わるから』
スマート炊飯器が、職員室の隅で「ご飯が炊けました」と告げた。昼休みだ。
私は通帳を引き出しにしまい、炊飯器の方へ歩いた。
暗号キーは、もう二度と使わないだろう。
たぶん。