棚卸しの周波数、届かない残高
──平成0x29A年 日時不明
何日だったか、もうわからない。
レジ横の日めくりカレンダーは三枚ほど前からめくられていないし、バックヤードの勤怠端末は「記録欠損」とだけ表示して、日付の枠が空白のままだ。
私はそれを気にしないことにしている。小売の現場ではよくあることだ。
「また来てるよ、監査」
イヤホンの片耳から、おじいちゃんの声がした。正確にはエージェント。三年前に肺炎で死んだ祖父・片桐義雄の人格だ。享年七十七。生前も口うるさかったが、エージェントになってからは輪をかけて口数が増えた。
通用口のほうで位置情報ビーコンが反応している。監査員が持つ端末の固有信号だ。今週――いや、今週という概念が正しいかわからないけれど――これで三度目になる。
ドラッグストア「マツキヨ+」の店長代理を任されてから、監査の頻度は明らかに上がった。棚の商品コードが党ドクトリンの署名基準を満たしているか、価格表示の差分が承認済みか。確認項目は百以上ある。毎回同じことを聞かれ、毎回同じ帳票を出す。
「おじいちゃん、通帳どこだっけ」
「どの通帳だ。店の経費口座か、おまえの個人か」
「店の。前回の監査で残高照合されたやつ」
「バックヤードの二段目、MDケースの隣」
あった。紙の通帳だ。磁気ストライプは死んでいるから、記帳は手書き。印字された最後の行は何ヵ月も前の日付で、それ以降は祖父の指示で私が万年筆で書き足している。監査員はこの手書きの数字を、携帯端末のカメラで読み取って照合する。端末はガラケーを二つ折りにしたような形で、でも背面にはサブスク課金アプリのアイコンが並んでいた。
「いらっしゃいませ」
監査員は若い女性だった。名札も所属表示もない。ビーコンの認証情報だけが彼女の身分を担保する。
「棚七番から確認します。よろしいですか」
「どうぞ」
私は後ろをついて歩く。棚七番は洗剤とシャンプーの列だ。ロボ清掃員がちょうどその通路を巡回していて、円盤型のボディが監査員の足元をすり抜けていく。センサーが人を感知して、小さな電子音を出した。掃除機というより猫みたいだ。祖父がよく言う。「うちで飼ってた猫の方がもっと賢かったがな」。今日は言わなかった。
監査員は棚のバーコードを一つずつ読んでいく。ときどき首をかしげ、端末に何か打ち込む。私はその背中をぼんやり見ながら、片耳のイヤホンからもう一つの音を聞いていた。深夜ラジオだ。周波数は合っているはずなのに、パーソナリティの声がときどき別の番組と混線する。天気予報のあとにいきなりリスナーの恋愛相談が始まり、そのBGMが九十年代のヒットソングになる。誰も訂正しない。放送局もまた、日付を見失っているのかもしれない。
「片桐さん、ここ」
監査員が棚の端を指さした。歯磨き粉が一本、署名ラベルの無いまま陳列されていた。
「差分承認の記録が見当たりません。保留にしますね」
保留。また書類が増える。ドクトリン署名のない商品は売れない。署名のアルゴリズムは半ば公開されているのに、手続きだけが厳格に残っている。歯磨き粉一本のために、私はまた帳票を書くのだ。
祖父が、ぽつりと言った。
「なあ、あの子のビーコン信号、前回と署名鍵が違うぞ」
「……どういうこと」
「知らん。ただ違う。監査する側の認証が、監査されてないってことだろうな」
ラジオのパーソナリティが笑っていた。誰かの投稿ハガキを読み上げている。「最近、何曜日かわからなくなりました」。スタジオに笑い声が広がる。
私は通帳を閉じた。
監査員が帰ったあとの店内で、ロボ清掃員だけが正確に、決められた軌道を巡回し続けていた。あの円盤だけが、この店で唯一、自分の仕事に監査を必要としない存在だった。