放課後のハッシュ値、あるいは一月の停滞
──平成0x29A年01月11日 17:50
平成〇x二九A年一月十一日、十七時五十分。
教室の隅に置かれた加湿器が、しゅんしゅんと頼りない音を立てている。窓の外はすっかり暗く、旧市街のビル群が低解像度の夜景のように明滅していた。
「成瀬さん、また校正エラーよ。三枚目のスライド、『国民』の定義が第百二世代ドクトリンに準拠してないって」
耳の奥で、佳乃の落ち着いた声がした。網膜の端に、彼女が生前よく着ていたカーディガンと同じ色のインジケーターが点滅する。生成AIによるリアルタイム校正が、私の作った講習資料を赤字で塗りつぶしていく。
「わかってる。でも、今のアルゴリズムは少し過敏すぎるんだ。このままだと、受講生たちの修了証が発行できない」
私は教卓に腰掛け、ポケットの中で「家の鍵の束」を弄んだ。今や生体認証と暗号鍵が主流だが、この平成エミュレート社会では、物理的な金属の塊をジャラジャラと持ち歩くのが『生活感』の象徴とされている。真鍮の冷たさが指先に心地よい。
目の前には、十数人の受講生が所在なげに座っていた。彼らは『内閣署名代行資格』の更新講習を受けに来た市民たちだ。本来なら十分前に終わっているはずだが、システムが止まっている。
「原因は何だ?」
「第〇x四三二内閣ユニットで、合意形成がループしてるみたい。政策変更リクエストの差分断片に、古い『iモード』時代の絵文字プロトコルが混入したのが原因だって」
佳乃が呆れたようにため息をつく。彼女のエージェント・プログラムは、私のストレスを緩和するために、時折こうした人間臭い仕草をシミュレートする。死後五年。彼女の声は、かつての食卓で聞いたものと寸分違わない。
受講生の一人が挙手した。
「あの、先生。さっきから『決済失敗』の通知が止まらないんですけど」
彼は古い液晶画面のスマートフォンを掲げた。画面には、講習費のサブスク決済がリトライを繰り返しているログが流れている。
「申し訳ありません。現在、中央ドクトリンの署名アルゴリズムが渋滞しています。皆さんの遺伝子ネットワークを通じた本人認証は完了していますが、最終的な『閣議決定』のパッチが降りてこないんです」
私は事務的な微笑を浮かべて答えた。誰もが知っていることだ。数十万の内閣ユニットが並行処理で統治を回しているこの国では、時折こうした「政治的な便秘」が起きる。どこかの誰かが五分間だけの総理大臣に選ばれ、適当な署名を放り込んでくれるのを待つしかない。
教卓の隅には、システムから自動配送された年賀状が積み上げられていた。宛名は『世帯主様』。一月十一日にもなって、まだこんなものが届く。二十世紀末の風習をエミュレートするアルゴリズムは、時折こうした時間感覚のバグを引き起こす。
「ねえ、成瀬さん。夕飯の買い物、サブスクの自動配送に任せる? それとも帰りにコンビニ寄る?」
佳乃の声が、事務的な沈黙を破る。
「……帰りに寄ろう。今日は、なんだか本物のビニール袋の音が聞きたい気分だ」
十七時五十五分。ようやく教室のメインモニターに、承認済みのハッシュ値が表示された。どこかの内閣ユニットで、ようやく合意が形成されたらしい。受講生たちの端末が一斉に電子的な修了証を受信し、安堵の溜息が漏れる。
私は最後の一人が教室を出るのを見届け、照明を落とした。暗い教室に残ったのは、私の家の鍵が立てる小さな金属音と、佳乃の穏やかな呼吸音だけだった。
「お疲れ様。さあ、帰りましょう」
世界がどれほど歪んで停滞していようと、私たちの日常はこうして淡々と、平成の夕暮れを繰り返していく。私はコートの襟を立て、誰もいない廊下を歩き出した。