感熱紙に滲むアンペアと、夕暮れの配線図

──平成0x29A年03月29日 17:10

平成0x29A年03月29日 17:10。
傾きかけた夕陽が、第4居住ブロックの古びた団地の壁面をオレンジ色に染め上げている。
私は管理室のパイプ椅子に深く腰掛け、目の前のブラウン管テレビの画面を睨んでいた。分厚いガラスの奥で、夕方のバラエティ番組が砂嵐のノイズにまみれて歪んでいる。画面に触れると、パチパチという静電気の刺激と共に、微かなオゾンの匂いが鼻を突いた。

「また電圧が落ちてるな。第三棟の分電盤、コンデンサが寿命かもしれんぞ」

脳内の聴覚野に直接響く、しゃがれた声。五年前に老衰で亡くなった祖父・源流(げんりゅう)の近親人格エージェントだ。昔気質の電気技師だった祖父の人格データは、私の日々の業務を補佐してくれている。
私はこめかみをタップし、「記憶補助アプリ」を立ち上げた。網膜に直接投影されるiモード風のチープなUI画面に、祖父が遺した手書きの配線図のキャッシュがオーバーレイ表示される。

「第三棟ですね。この省電力マイクログリッド、ツギハギだらけでもう限界ですよ。なんでこんな古いシステムを維持しなきゃならないのか」
「党のドクトリンが『平成的であること』を推奨してるからさ。お前もそのおかげで飯が食えてるんだろうが」

祖父が皮肉交じりに笑う。確かに、この団地は自立型の省電力マイクログリッドで電力を賄っているが、その実態は騙し騙しの運用だ。

その時、部屋の隅に置かれた黄ばんだFAX機が、突然「ピーガガガ」と耳障りな駆動音を立て始めた。
着信ランプが激しく点滅している。単なる業務連絡ではない。暗号化されたヘッダ情報が、それが第0x7B9F内閣ユニットからの直通通信であることを示していた。

「おや、当たりクジか」祖父が呟く。

吐き出された感熱紙を引きちぎり、印字された文字列に目を落とす。ランダムに選出される、五分間だけの内閣総理大臣の権限付与通知。そして、多様なステークホルダーから提出された「現行制度との差分断片」の承認リクエストだった。

『対象:第4居住ブロック。旧型省電力マイクログリッドの維持予算削減、及び標準電力網への強制統合案。承認により、当該ブロックの全旧型設備は一週間以内に廃棄される』

私は息を呑んだ。これに党ドクトリンのアルゴリズム署名を施して「承認」すれば、私の仕事は劇的に楽になる。面倒な電圧調整も、休日の呼び出しもなくなる。しかし同時に、この管理室にあるブラウン管テレビも、祖父の記憶が染み付いた配線図も、すべて無用の長物として焼却炉行きになる。

「……じいちゃん、これ」
「通せばいい。時代遅れのものは、いつか消えるのが道理だ。俺の知識に縛られることはないさ」

祖父の声は淡々としていた。それがアルゴリズムの導き出した「最適解」なのだろう。だが、記憶補助アプリに浮かび上がる不格好な配線図のドット絵を見つめていると、胸の奥がチクリと痛んだ。
この非効率で不完全なシステムを維持することは、私にとって祖父との対話を続けるための儀式だったのだ。

手元の端末で、党ドクトリンの暗号キーを展開する。私は数秒間だけ目を閉じ、アルゴリズムの一部を意図的に上書きした。
『非承認』。

送信ボタンを押すと同時に、FAX機が再びピーガガガと鳴り、短く完了通知を吐き出した。五分間の総理の職務は、これで終わりだ。

「馬鹿な奴だ。また深夜に分電盤を直しに行く羽目になるぞ」
「いいんですよ。じいちゃんの小言を聞きながら作業するの、嫌いじゃないですから」

ブラウン管テレビのノイズがふっと収まり、画面の中で芸人が大げさに笑い転げている。私は感熱紙を丸めてゴミ箱に放り投げ、工具箱を手に取った。夕暮れの団地には、まだどこか温かい生活の匂いが漂っていた。