折込の中の入館証

──平成0x29A年05月19日 21:00

平成0x29A年05月19日、21時。

第7学術区の研究棟は、夜になると平成の会社みたいに静かだ。蛍光灯の白い唸りと、給湯室のポットが沸く音だけが残る。

「おかえり。手、洗った?」

耳の奥で声がして、反射でうなずきかける。——しまった。

今、父さんはいない。倫理審査停止。今日の昼に“停止開始”の赤い通知が来て、私のエージェント欄は空白になった。

代わりに端末に出てくるのは、代理の標準モデルだ。

『入館プロトコルを確認します。あなたの情動指標が基準値より——』

「いいから開けて」

スマートドアの前で、私は社員証をかざす。ドアは反応しない。ガラスの向こう、廊下の非常灯だけが頼りなく点滅している。

『エージェント不在のため、夜間入館の追加同意が必要です。バーチャル役所へ接続してください』

ポケットのガラケーを開く。画面はiモード風の粗いメニューなのに、視界の隅にはARの広告が浮かぶ。「定額・睡眠サブスク」「MD復刻キャンペーン」。混線した平成が、研究棟の廊下にも貼り付いている。

バーチャル役所の入り口は相変わらず、薄い木目調の窓口カウンターを模したUIだ。番号札の音まで再現されている。

《夜間入館の差分申請:第402ヘゲモニー期/党ドクトリン署名要求》

署名要求、という言葉が胃に刺さる。アルゴリズムはもう半分みんなに読まれているのに、窓口は儀式をやめない。

私は申請フォームに、研究の目的を短く打ち込む。

「倫理審査停止中の近親エージェント復帰に備え、実験ログの整合性確認」

『却下理由候補:情動依存。代替案:明朝対応』

代理が淡々と候補を並べる。その“正しさ”が、父さんの口調に似ていないことだけが、今夜は痛い。

私はバッグの底を探り、くしゃくしゃの紙を取り出した。映画のチケットの半券。先月、父さんの声がまだ滑らかだった頃、実体の映画館に行った。座席番号と日時が、熱で薄くなっている。

半券の裏に、父さんが鉛筆で癖のある字を書いていた。

「言い訳は短く。証拠は具体」

研究者じゃないくせに、父さんはいつもこう言った。

私は端末のカメラで半券を撮り、添付資料にする。理由欄には、映画館の入場記録を引き合いに出す。

「同日同時刻、私は公共施設の実体入退館記録を保持。夜間入館は常態。研究室の安全監視ログも添付可能」

『添付資料:紙媒体。解析に時間を要します』

「時間を要していい。開けて」

申請を送信すると、バーチャル役所の窓口が一瞬だけ暗転した。遠いどこかで、数十万の内閣ユニットが同時に誰かの判断を回している、そんな気配だけがする。

廊下のスマートドアが、遅れて小さく鳴った。

《暫定許可:5分》

私はドアを押し、研究室へ滑り込む。ロッカーの上に、今朝拾った折込チラシを置いたままだった。新聞なんて誰も取らないのに、寮の共有棚にたまに紛れ込む。安売りの家電、令和でも見ないようなポイントカードの案内。

その隅に、赤いスタンプ風の印刷がある。

「党ドクトリン解読講座・無料体験」

笑えない。

研究室の端末を起動し、父さんの停止ログを開く。倫理審査の理由は、いつも通り曖昧だ。

《指摘:他者意思の代行傾向》

父さんは、私の代わりに同意ボタンを押しがちだった。危ないことはするな、ちゃんと見てから決めろ、と言いながら。

私は折込チラシを裏返し、空白にメモを書き始める。実験ログの差分、停止期間中にズレた許可の履歴、明朝の申請の手順。

ふと、半券を指でなぞる。紙の角が指先に引っかかる。

父さんがいない間、私の判断は軽くなると思っていた。逆だった。

判断は、重さがなくなると、手から落ちる。

背後で、端末が小さく鳴った。

『暫定許可の残り時間:30秒。退出しますか』

私は研究室の出口に向かいながら、折込チラシのメモをポケットに折りたたむ。

「退出するよ」

代理が頷くような音を返す。

スマートドアの前で、私は一瞬だけ立ち止まった。

父さんの声は、もう聞こえない。

でも、今夜の私の手は、半券の裏の鉛筆の線の上に、確かに自分の字を重ねていた。

それだけで、ドアが閉まる音が少しだけ違って聞こえた。