歳末の夜、帳簿の奥の囁き

──平成0x29A年12月14日 22:40

平成0x29A年12月14日、22時40分。
神明社の社務所は、冷え切った外の空気をわずかに遮断している。折りたたみ式の携帯電話の小さな画面から漏れる光が、手元の帳簿をぼんやりと照らしていた。毎年この時期は忙しい。歳末の準備に加えて、内閣ユニットからの監査リクエストがやたらと増えるのだ。

「あかり、その欄の金額は去年の寄進と整合が取れておらぬぞ」
耳元の小型デバイスから、祖母の声が響く。早乙女静、享年58。脳梗塞で急逝した元宮司のエージェントだ。祖母は生前の厳格さをそのままに、今日も私の監査業務を補佐している。
「おばあちゃん、これは氏子さんの手違いで、後で調整するって連絡が入ってるの。システムにはもう反映済みよ」
私はため息交じりに答えた。システム上は問題ないことがほとんどなのに、わざわざ紙の帳簿を突き合わせてくる。これも「伝統文化の維持」という名目の、過剰な監査の一環だろう。神社の行事プロトコルは、党ドクトリンの定める「社会安定に最適」な平成様式に則り、事細かにデジタル化されている。その一つ一つに、微細な差異がないか、彼らは目を光らせているのだ。

テーブルには、通帳と、今月のガス検針票が広げられている。通帳の残高は安定しているが、ガス代は毎月のように高騰している気がする。働かずとも暮らせるこの時代に、巫女の仕事はあくまで「平成」をエミュレートした生活の一部だ。それでも、神明社の維持には費用がかかる。その管理も私の役割だ。

「内閣ユニット第0x78Dからの閣議リクエスト。対象:神明社歳末大祓式プロトコル。差分断片検出:結びの儀における祝詞の語句、一部改変。承認/非承認を問う」
デバイスが事務的な声で告げる。またこれか。数年前までは口伝で伝えられていた祝詞に、党ドクトリンアルゴリズムが解析した「最適化」という名の改変を推奨してくるのだ。その「最適化」の裏には、半ば公然と解読されている党ドクトリンの『量子署名』のパターンがあるらしいが、私には関係のない話だ。

「そのようなものは、非承認で構いません。古式を重んじるのが我らの務め」
祖母が即座に答える。その声には、祖母が生きていた頃の、凛とした威厳が宿っている。祖母の人格エージェントは、法定倫理検査を終えたばかりで、いつも以上に安定しているようだった。

その時、左手首のナノ医療パッチが微かに振動した。体温、心拍数、ホルモンバランス。全てが基準値内であるという通知。私の体の状態まで、常に監視されているような気分になる。これもまた、過剰な監査の一種なのか。

私は通帳を閉じ、ガス検針票を書類挟みに挟んだ。目の前にある、伝統的な神社の帳簿。そして、耳元で語る亡き祖母の声。手首に貼られた最先端の医療パッチ。小さな折りたたみ携帯。すべてが混在しているこの生活の中で、私は一体何を守っているのだろう。

「おばあちゃん、どうしてこんなに厳しく監視されるのかしら? 私たちのやっていることなんて、些細なことなのに」
私が呟くと、祖母はしばらく沈黙した後、静かに言った。
「……ひょっとすると、失われゆくものを、彼らは記録しておきたいだけなのかもしれぬな。完全に消え去る前に、その形を、ドクトリンという名の帳簿に残そうとしておる……」

窓の外、凍てつく冬の夜空には、星が瞬いていた。遠い昔から変わらない輝きと、その光が届くはるか未来で、私もまた、誰かの記憶の一部になるのだろうか。帳簿を閉じる音が、ひっそりと静寂に吸い込まれていった。