通帳の行間、教室のざわめき

──平成0x29A年03月18日 16:40

平成0x29A年03月18日、16:40。

訓練校の廊下はワックスの匂いが強くて、夕方になると少しだけ平成の学校に戻る。
私は第12物流ブロック附属の「群ロボ整備・運用」職業訓練課、講師補助だ。教卓の脇に積んだA4の束が、今日の主役だった。

「紙の運行記録、配ります。書式は古いけど、これが今期の標準」

生徒たちが露骨に嫌そうな顔をする。机の上にはタブレット、でも横にはガラケー形の認証端末が置かれていて、着信音だけがやたら元気だ。

耳の奥で、私のエージェントが咳払いする。
『奈緒、字は丁寧に見せな。手続きは見栄えで通る時代があった』

父——森川 恒一、享年59。物流センターで群ロボの挟み込み事故に遭って死んだ。生前の口調のまま、私の目の端に小さな字幕みたいに助言が出る。

教室の後ろの窓から、実習ヤードが見える。荷台のような床面を、物流用群ロボットが蟻みたいに走っている。小さな車輪音が一定で、たまに接触回避の電子音が「ピッ」と混じる。

今日の訓練は、群ロボのルートを“紙で”起こして、最後に運行担当の内閣ユニットへ差分を投げる——はずだった。

ところが、朝から通知が刺さり続けている。
「党ドクトリン署名検証:遅延」
「差分断片:審査待ち」

誰かが5分だけ総理をやっているはずなのに、どこにも手触りがない。代わりに「紙で保全しろ」とだけ降ってくる。末期のアルゴリズムが、紙に逃げてる。

「先生、これ何に使うんすか」
前列の子が、配布した紙をひらひらさせる。

「監査。あと、事故のとき」
私は答えながら、教卓の引き出しから通帳を出した。

「え、通帳?」

「今日の教材。見せるだけ」

私の通帳は磁気も印字も中途半端で、アプリの残高と微妙に合わない。だけど紙面には、振込のタイミングと、誰が何を“認めた”かが残る。

『ほらな。数字より、行の切れ目が大事だ』と父が言う。

生徒が笑う。「平成すぎ」

「平成は今も動いてるからね」
私は冗談みたいに言ってしまい、少し後悔した。

机間を回って、紙の書き方を見ていく。鉛筆の芯の匂い、消しゴムのカス。誰かのイヤホンから、ストリーミングの曲がMDみたいに途切れ途切れに漏れてくる。

そのとき、私のガラケー端末が震えた。
分散SNSの通知だ。ローカルの職能コミュニティ「群整備連絡網」。

〈紙運行記録の“押印欄”、今週から必須って本当?〉
〈内閣ユニットの受付、電子印鑑を弾き始めた。理由不明〉
〈党署名が読める人、誰か解析して〉

教室のざわめきより、その短文の連鎖の方が現場の呼吸に近い。
私は返信しようとして、指が止まる。

『押すな。まず書け。書いた事実が先だ』と父。

実習ヤードの群ロボが、一斉に停止した。
「ピッ、ピッ、ピッ」

モニタに赤い帯。
「差分適用保留:承認署名不一致」

生徒の一人が、なぜか教室の隅のPS2を指さした。授業で使う古いシミュレータ用だ。ブラウン管の代わりに安物のフラットに繋いでいて、画面の比率が微妙におかしい。

「先生、あれの方が動くんじゃね?」

私は一瞬、笑いそうになった。けど、笑えなかった。
PS2のシミュレータはネットにつながらない。党署名も関係ない。事故も起きない。

「……動くよ。動くけど、現物は止まってる」

私は紙束の一枚を取り、通帳の硬い表紙の上で、運行ルートの線を引き直した。ロボが止まった位置、回避の余地、手作業で運べる最短距離。

父が静かに言う。
『事故の前の日も、止まってた。止まった理由は誰も説明しなかった。説明が来るまで待つな』

私は分散SNSに短く投稿する。
〈紙のルートで回す。押印は後。通帳みたいに“行”を残せ〉

送信した瞬間、実習ヤードのロボが二、三台だけ動き出した。誰かがどこかの内閣ユニットで、紙の写真を差分断片として投げたのかもしれない。あるいは、ただ現場が勝手に繋いだのか。

教室の窓に、夕方の光が薄く伸びる。
私は通帳の印字を眺めた。そこには、父の葬儀の費用の引き落としが一行、きれいに残っている。

“承認”って、こういうことだったのかもしれない。
署名でも、アルゴリズムでもなく。

鉛筆の先が紙を擦る音が、やけに大きく聞こえた。