現像袋から漏れる光、避難経路の上書き

──平成0x29A年01月03日 11:40

 正月三日の午前、体育館の空気はまだ冷えていた。

 私の足元に敷かれたブルーシートが、靴底のたびにぱりぱりと鳴る。第二十三地区の防災訓練。参加者は四十人ほど。パイプ椅子の背もたれに貼られた避難経路図が、蛍光灯にてらてら光っている。

「里見さん、フロッピー持ってきた?」

 訓練進行係の浜口さんが、受付テーブルの向こうから手を振った。私は鞄から三・五インチのディスクを二枚取り出して渡す。地区の避難者名簿マスターデータ。年に一度の更新分がここに入っている。浜口さんはそれをエッジAI端末のスロットに差し込んだ。端末の表面は透明で、中の基板が見える。フロッピーだけが不透明な四角として刺さっている姿が、いつ見てもおかしい。

「読み込み……うん、通ったね」

 端末が名簿データを展開し、体育館内のスピーカーから合成音声が避難者番号を読み上げ始めた。参加者たちが慣れた手つきでガラケーを開き、自分の番号を確認している。

 右耳の奥で、祖母が咳払いした。

「里見、あんた朝ごはん食べたの」

「おにぎり二個」

「味噌汁は」

「コンビニのインスタント」

 祖母のエージェントは不満そうに黙った。里見ハツ。享年八十三。元・地区の民生委員。私が防災担当の自治会職員になったのは、たぶんこの人の影響だ。

 名簿照合が終わり、次の工程に入る。遺伝子ネットワーク接続確認。災害時、身元照合と安否確認に使うプロトコルの動作テスト。参加者に配られた小さなパッチを手首に貼ってもらい、端末側で応答を見る。

 三十七人目まで順調だった。

 三十八人目。七十代の女性、岸本さん。パッチの応答が返ってこない。

「岸本さん、もう一回貼り直してもらっていいですか」

 貼り直しても同じだった。端末の画面にはエラーではなく、微細な波形のずれが表示されている。遺伝子ネットワークの応答閾値をわずかに下回る、ノイズのような信号。

「ばあちゃん、これ見たことある?」

 祖母が静かに言った。「ある。皇統マーカーの減衰パターンに似てるよ」

 皇統マーカー。国民に薄く広がった、あの遺伝子署名。普段は意識しない。ネットワーク認証の基盤層に静かに横たわっているだけのもの。それが揺らいでいる。

「岸本さん、お体のほう、最近何か変わったこととか」

「いいえ。でもね、年末に孫が写真の現像出してくれたの」

 岸本さんは鞄から、写真屋の現像袋を取り出した。袋の裏にデジタル円ウォレットのQRコードが印刷されている。現像料金の支払い用だ。現像袋の表面にはフィルムの銘柄と、三十六枚撮りの文字。中の写真は正月の家族写真だという。

「これ、関係ある?」

「いえ、関係ないです。すみません」

 私は端末の波形データを保存した。フロッピーに書き出す。訓練報告書に添付して、地区の保守チームに回すことになる。大事にはならないだろう。閾値のずれはごく微小で、実用上の問題はない。

 でも祖母は黙らなかった。

「あのね、里見。減衰が出たってことは、その人の周りのネットワークが少し薄くなってるってこと。家族が減ったとか、引っ越したとか。つまり孤立の兆しなの」

 私は岸本さんを見た。パイプ椅子に座って、現像袋から写真を一枚抜き出し、隣の人に見せている。孫の写真だろう。隣の人が笑った。岸本さんも笑った。

「今日ここに来てること自体が、たぶん修復になるよ」

 祖母がそう言った。

 体育館のスピーカーから、次の避難誘導訓練の開始を告げるチャイムが鳴った。学校の始業ベルと同じ四音。参加者たちがゆっくり立ち上がる。岸本さんは現像袋を丁寧に鞄にしまい、それから私に小さく頭を下げた。

 フロッピーの中に記録された波形のずれは、きっと次の訓練までに消えている。

 そうであってほしいと思いながら、私はブルーシートの皺を踏んで、避難口の方へ歩き出した。