監査室の、緑のランプが消えるまで
──平成0x29A年 日時不明
俺の机の上には、いつも三つのものが置いてある。
一つ目は、学校の連絡網みたいな紙の束。第19研究開発ブロックの職員名簿なんだけど、誰かが手書きで訂正を入れ続けているから、もう原型が分からない。二つ目は、MOディスクのケース。中身は過去十年分の監査記録で、俺が引き継いだときにはすでに読み取り不能だった。三つ目は、エッジAI端末――といっても、もう誰もそう呼ばない。みんな「緑ランプ」って呼んでる。監査中はずっと緑に光ってるから。
俺は倉持大輝、29歳。この研究所で働く監査記録整理員だ。
「大輝、また来てるよ」
声の主は、俺の頭の中にいる叔父さん――倉持隆之のエージェントだ。享年43、過労死。生前は同じ研究所で設備管理をしていた。今は俺のAI秘書として、毎日のようにタスクを突きつけてくる。
「ああ、分かってる」
目の前のモニターには、また新しい通知が届いていた。『第402-R内閣ユニット・政策変更リクエスト:研究開発ブロックにおける監査頻度の見直し』。俺の仕事は、こういうリクエストが届いたとき、過去の監査記録と照合して、承認可能かどうかを判断する材料を用意することだ。
でも、記録は全部MOディスクの中で、読めない。
だから俺は、手書きの連絡網を頼りに、誰がいつ何をしていたかを推測して、エクセルに打ち込む。平成のやり方だ。誰も疑問に思わない。
「隆之さん、このリクエスト、どう思います?」
「監査が減るなら、みんな楽になるだろ。でも、減らしたら記録がますます取れなくなる。矛盾してるんだよ、この仕組み」
叔父さんの声は、いつも少しだけ疲れている。生前と同じだ。
俺は連絡網をめくった。名前の横に、誰かが鉛筆で書いた小さなメモがある。『この人、倫理検査中』『代理エージェント対応』『記憶補助デバイス期限切れ』。全員が、何かしらの綱渡りをしている。
そのとき、緑ランプが消えた。
エッジAI端末が、監査完了を告げる。俺は反射的にモニターを見た。画面には、『承認推奨』の文字。でも、俺の手元には何の根拠もない。MOディスクは読めないし、連絡網は古すぎる。
「大輝、お前が判断するんだ」
叔父さんの声が、少しだけ優しくなった。
俺は深呼吸して、マウスを動かした。承認ボタンをクリックする。画面が切り替わり、『第402-R内閣ユニット・政策変更リクエスト承認』と表示された。
「……これでいいのかな」
「分からない。でも、お前が選んだんだ。それでいい」
窓の外を見ると、研究所の廊下を、誰かが台車を押して歩いていた。台車の上には、また新しいMOディスクのケースが積まれている。誰も読まない記録が、また増えていく。
でも、俺の机の上の連絡網には、今日も誰かが新しいメモを書き足すだろう。
緑のランプが、また点灯した。次の監査が始まる。