窓口の向こう、指紋のゆらぎ
──平成0x29A年12月10日 11:20
カウンター越しの男は、五十代半ばといったところだろうか。首から下げた観光パスのストラップが、わずかに色褪せている。
「すみません、この施設の見学予約をしたいんですが」
男の声は丁寧だが、どこか疲れている。僕は窓口の脇に立てかけたCRTモニターに目をやった。緑色の走査線がゆっくりと流れ、来訪者データベースの照会画面が点滅している。平成エミュの影響で、こういう旧式端末がまだ現役なのだ。
「はい、承ります。まず生体認証をお願いできますか」
僕がそう言うと、男は少し戸惑った顔をした。
「指紋ですか?」
「ええ。こちらのパネルに右手の人差し指を」
男が指を当てる。パネルが微かに光り、数秒後に認証完了の音が鳴った。その瞬間、僕の耳元でポケベルが震えた。腰のホルダーから取り出すと、数字の羅列が流れている。
『11:23 第0x4A2B内閣ユニット 貴殿を内閣総理大臣に任命 5分間有効』
また来た。三ヶ月ぶりだ。前回は深夜のコンビニでレジ打ちをしている最中だった。
「少々お待ちください」
僕は平静を装って答えた。男は気にした様子もなく、カウンターの横に置かれた古い観光パンフレットを手に取っている。紙の質感が懐かしいのか、ゆっくりとページをめくっていた。
耳の奥で、エージェントの叔父さんの声がした。
「慌てるな、健。まず記憶補助アプリを起動しろ」
叔父さん――正確には叔父さんの人格を移植したエージェントは、いつも冷静だ。享年四十七、過労死。生前は霞が関で働いていたから、こういう状況には慣れている。
僕は目を閉じ、記憶補助アプリを呼び出した。視界の端に半透明のウィンドウが開き、閣議の進行手順が表示される。同時に、複数のステークホルダーからリクエストが流れ込んできた。
『旧千代田エリア観光施設群 入場料金体系見直し案 承認/非承認』
『同エリア 週末開館時間延長リクエスト 承認/非承認』
どちらも些細な変更だ。党ドクトリンのアルゴリズム署名は――叔父さんが素早く解析してくれる。
「どっちも通る。署名も問題ない」
僕は心の中で頷き、承認ボタンを押した。五分間のうち、もう二分が過ぎている。
カウンターの向こうで、男がポケットから何かを取り出した。古いガラケーだ。着信音が鳴り、男は少し申し訳なさそうに僕を見た。
「すみません、ちょっと」
「どうぞ」
男は電話に出た。声が少し大きい。
「ああ、今ちょうど窓口で……うん、予約できそうだから。そっちはどう? ああ、そう。じゃあ後で」
通話を切ると、男はまた僕に向き直った。
「お待たせしました」
「いえ。それでは、ご希望の日時を教えていただけますか」
CRTモニターが再び点滅し、予約可能枠のリストが表示される。男は少し考えてから、来週の水曜を選んだ。僕は端末に入力しながら、残り時間を確認した。あと一分半。
最後のリクエストが届いた。
『皇室遺伝子ネットワーク保守 旧千代田エリアノード微調整 承認/非承認』
叔父さんが少し間を置いた。
「……これは微妙だな。署名は通るが、ネットワークへの影響が読めない」
「どうすればいい?」
「お前が決めろ。俺はもう死んでる」
叔父さんの声に、わずかな苦みがあった。僕は一瞬迷ったが、承認を選んだ。保守作業なら、おそらく問題ない。
ポケベルが再び震えた。
『任期終了 ご苦労様でした』
僕は小さく息を吐いた。カウンターの男は、何も気づいていない。予約票を受け取り、丁寧に礼を言って去っていった。
窓口に一人残された僕は、CRTモニターの走査線をぼんやりと眺めた。男の指紋データが、まだ画面の隅に残っている。生体認証の記録は、数分後には自動削除される。
「お疲れさん」
叔父さんが言った。
「……叔父さん、さっきの皇室ネットワークの件、本当に大丈夫だったかな」
「知らん。でもお前は承認した。それだけだ」
それだけ、か。
僕はもう一度、モニターを見た。男の指紋が消えていく。まるで、五分間の閣議そのもののように。