君が忘れた匂いの届け先

──平成0x29A年04月21日 08:20

「陸、また寝ぼけてる。ルート確認、AR同期、早く」

耳の中で、死んだ姉さんの声が急かす。僕はあくびを噛み殺しながら、配達トラックのコンソールを叩いた。ガラケーみたいな物理キーと、フロントガラスに投影されるARルートがちぐはぐで、いつまで経っても慣れない。

『おはよう、海さん。今日の荷物は?』

「特殊指定品。区画3Bの旧商業施設跡地だって。また面倒そうな……」

コンベアから流れてきたのは、銀色のジュラルミンケースだった。伝票には『精密嗅覚デバイス』とだけ印字されている。宛先コードをスキャンすると、ナビの地図がエラーを吐いた。

「あー、やっぱり。一部アドレスが欠損してる」

姉さんが呆れたようにため息をつく。僕の脳に直接、補足情報が流れ込んできた。

『原因:第0x3F89内閣ユニットによる地域台帳更新リクエストが、党ドクトリン署名アルゴリズムとの不整合で部分的に棄却された影響です。復旧見込みは未定』

「だってさ。また内閣のお偉方(ランダムで選ばれた誰かさん)が変なリクエスト承認しちゃったんでしょ。仕方ない、昔の地図データと照合するから、ちょっと待って」

姉さんは僕と違って、こういうのが得意だった。生きていた頃から。

トラックを走らせながら、姉さんが雑談を続ける。

「この辺、昔はでっかいゲーセンがあったんだよね。あんたが生まれる前。よく友達とプリクラ撮りに来たっけ」

『プリクラ?』

「知らない? 写真を撮ってシールにするやつ。撮る前に油性ペンで目に光入れたりしてさ」

僕にはよく分からない。そんなアナログなものが流行った時代があったらしい。

やがて、ARナビが古びたビルの前で停止を指示した。看板は錆びつき、文字はほとんど読めない。入り口に立つと、ホログラムで『メタバース広場 第七アクセスポイント』とだけ表示された。

中から出てきた白衣の女性にジュラルミンケースを渡すと、彼女は慣れた手つきでテレホンカードによく似た青いカードを決済端末に差し込んだ。

「はい、受領サイン。いつもありがとう」

ピッ、という軽い電子音だけが、がらんどうのロビーに響いた。

帰り道、姉さんはやけに静かだった。

「ねえ、陸」

『ん?』

「あの匂いデバイス、何に使われるか知ってる?」

『さあ。メタバースで使う何かだろ』

「うん。……倫理検査で、人格データが少しずつ壊れちゃったエージェントっているでしょ。そういう人たちのために、記憶の匂いを再現して嗅がせるんだって」

僕は何も言えなかった。

「昔撮ったプリクラのインクの匂いとか、文化祭の焼きそばの匂いとか。そういう、本人すら忘れかけてる匂いを嗅がせると、精神が安定するらしい」

その言葉は、やけに重く僕の頭に響いた。

朝の光が差し込む首都高を走りながら、僕は不意に尋ねた。

『姉さんは……倫理検査、大丈夫なのか』

しばらくの沈黙。トラックの走行音だけが聞こえる。

やがて、姉さんは努めて明るい声で言った。

「実はさ、私ももうすぐなんだ。だから、あんたに言っておきたくて」

「もし私の記憶がちょっとおかしくなっちゃってもさ」

「私の好きだった匂い、覚えててくれる?」

潮風と排気ガスが混じった匂いが、開けた窓から流れ込んでくる。僕は何も答えられず、ただアクセルを踏み込んだ。