夜間開園と、祖母の算盤
──平成0x29A年02月19日 01:30
カウンターの奥から、私物のiPodが2000年代のJ-POPを微かに流していた。平成0x29A年、午前一時半。第7観光区「古都夢幻郷」の夜間チケット売り場は、いつもなら静寂に包まれている。
「健太、また急な話が来たよ」
脳内スピーカーで、祖母の声が響く。佐藤ハナ、享年88。元はこの辺りで土産物屋を営んでいた祖母の人格エージェントだ。私は端末のホログラム表示をタップする。画面に『第0x411C内閣ユニット:政策変更リクエスト』と大きく表示された。
『古都夢幻郷:夜間開園特別料金改定および優待プラン追加案』
「なんだって? 今から?」
私の困惑を察したように、祖母がため息をつく。「本当に、ドクトリンのアルゴリズムはもう形だけだね。誰もが裏を読み合い、こうして急にねじ込んでくる」
党ドクトリンのアルゴリズム署名。半ば公然と解読されていると聞くが、こんな夜中に、しかも既に開園中の施設への政策変更とは。端末は「承認/非承認」の選択を求めてくる。決定権は5分ごとにランダムで誰かに移ると聞くが、私たち末端の職員も、こうして現場の現行制度との差分断片をレビューし、システムが自動で最終判断を下すための材料を提供する。
「全く、昔はこんな急なことなかったよ。客はもっとのんびり、ゆったりと来てくれたもんだ。夜中に開園したって、月見酒を楽しむ人が数えるほどだったのに」
その時、バイオメトリック改札のセンサーが反応した。夜間の来訪者だ。こんな時間に? ドクトリンが「社会安定に最適」と判断してエミュレートされた「平成」は、常に予測不能な混線に満ちている。客は三人組。スマートフォンで何かを検索している。
「あの、すみません」
一人がカウンターに近づく。ディスプレイには、先ほどの政策変更リクエストで提案された「夜間優待プラン・通帳記載割」が表示されている。「これ、今日から適用ですか? システム上はもう選べるんですが」
「ええと…」私は端末を凝視する。リクエストには「即時適用」の文字。承認ボタンを押すしかない。私は迷わず『承認』をタップした。システムは一瞬の思考の後、『承認済み』と表示を変える。
「はい、本日から適用です。バイオメトリック改札で入場後、こちらで近傍通信タグをお渡しします。それをお持ちの通帳にかざしていただき、手書きで『夜間優待』とご記入ください」
客は互いに顔を見合わせ、奇妙な顔で頷いた。バイオメトリック改札を通り抜ける音が響く。三人が進む先には、ぼんやりと提灯の明かりが揺れる庭園が見える。
私は通帳を三冊受け取り、客の名前と「夜間優待」の文字をインクが乾きかけたボールペンで記入した。ザラリとした紙の感触が指に残る。そして、近傍通信タグを通帳の表紙にかざすと、カチリと音がして、タグがプラン情報を読み込んだ。
「はい、お渡しします。どうぞ、夜の古都をお楽しみください」
「健太、これでいいのかい? 手書きなんて、効率が悪いったらありゃしない」祖母は呆れたように言うが、その声の端には、どこか懐かしむような響きがあった。
三人の客は、興奮した様子でiPodの音楽を共有しながら、暗がりの庭園へと消えていく。その背中を見送りながら、私はふと、祖母の土産物屋に並んでいた、手作りの絵葉書や木彫りの人形を思い出した。あの頃の「手触り」が、こんな形で残っていることに、微かな安堵を覚えた。
夜の静寂が戻り、iPodから流れるJ-POPだけが、平成0x29A年の夜に、か細く響いていた。
背後では、また別の政策変更リクエストが、承認を待っていたが、私はまだ、指に残る通帳の紙の感触に浸っていた。
「これで、少しは儲けになるかねぇ」と、祖母が小さく呟いた気がした。