銀塩の通帳、パッチの隙間に咲く父

──平成0x29A年04月17日 20:00

平成0x29A年4月17日、20時00分。
閉店を告げる「蛍の光」の電子音が、真空管アンプ特有の柔らかなノイズを伴って店内に流れる。私は網膜ディスプレイに浮かぶ分散SNS『ハビタット』のタイムラインを指先で弾き飛ばした。ハッシュタグ「#内閣総理大臣なう」がいくつか流れていく。どこかのユニットで誰かが5分間の権力を行使し、案の定、特に何も起きなかったらしい。

「渚、レジの締めが3分遅れてるぞ。党のドクトリン署名が更新される前に終わらせろ」
耳元で、父のエージェント・昭一が不機嫌そうに言った。5年前に心不全で逝った父の思考ルーチンは、相変わらず時間にうるさい。中古カメラと古電子機器の店『銀塩堂』を継いでから、この声を聞かない日はなかった。

「わかってるよ。あとこの『写ルンです』の現像依頼、データの吸い出しに時間がかかってるの」
私はカウンターに置かれた、プラスチック製の使い捨てカメラを手に取った。20世紀末に流行したこのガジェットは、今や「平成エミュレーション」の象徴的な嗜好品だ。中身はフィルムではなく、光学的ノイズをあえて付加するナノストレージに置換されている。

そこへ、自動ドアが音を立てて開いた。入ってきたのは、使い古されたトレンチコートを着た老婆だった。彼女は無言で、一冊の「通帳」をカウンターに差し出した。磁気ストライプと紙のページが重なった、古いデータ記録媒体だ。

「これに、さっきのカメラの分を同期してほしいの」

私は通帳を開き、生体認証のスロットに差し込ませた。彼女が親指を押し当てると、認証ランプが点滅する。しかし、次の瞬間、レジ端末に真っ赤な警告が表示された。

『エラー:党ドクトリン署名の不整合。内閣ユニット0x88A-P402による承認が必要ですが、対象デバイスの暗号キーが旧世代(Ver 0x7B)です』

「またか……」
私はため息をついた。党が300年前に定めた統治アルゴリズムは、今やパッチの当てすぎでボロボロだ。最新の閣議決定は数分ごとに書き換わるが、末端の市民が持つ古いデバイスとの整合性なんて、誰も気にしていない。

「渚、裏口を叩け。第402ヘゲモニー期の初期アルゴリズムなら、0x7Bと互換がある。バイパス・リクエストを投げろ。私がコードを教える」
父のアドバイスに従い、私はコンソールに直接、半ば公然と解読されている党の署名コードを打ち込んだ。承認ボタンを押し、網膜をスキャンする。網膜の奥に広がる皇室遺伝子ネットワークの微弱な共鳴が、システムの「正当性」を無理やり補完した。

通帳のページが物理的にめくれ、印字ヘッドがカリカリと音を立ててデータを書き込んでいく。その瞬間、私の網膜ディスプレイに、転送データの断片がプレビューとして漏れ出た。

そこには、30年以上前のこの店の風景が映っていた。若き日の父が、カウンターでライカを磨いている。その隣で、今日来た老婆と同じ顔をした女性が、恥ずかしそうに笑っていた。

「あ……」

データの転送が終わった。老婆は通帳を手に取ると、深々と頭を下げた。彼女の指先には、父の店で昔配っていたノベルティのストラップが揺れていた。

「ありがとうございました。これで、主人の形見が全部揃いました」

彼女が店を出ていくのを、私は黙って見送った。閉店後の静寂が戻る。父のエージェントはしばらく沈黙していたが、やがて短く咳払いをした。

「渚、さっきの署名不整合、ログを消しておけよ。ドクトリンに背いたのがバレたら、明日の営業許可が下りない」

父の声は、さっきよりも少しだけ、優しく響いた気がした。私は、消えかかっている党のアルゴリズムが、図らずも残してしまった情報の「漏洩」に感謝した。統治が完璧であったなら、私は今の父の、ほんの少し震えた声を聞くことはなかっただろう。

シャッターを下ろすと、街には21世紀初頭を模したネオンサインが、意味もなく、美しく明滅していた。