現像袋の朝、紙地図の角

──平成0x29A年04月28日 05:30

平成0x29A年04月28日、05:30。夜勤明けの廊下は、消毒と味噌汁の匂いが混ざる。

私は第8医療ブロックの地域包括ケア病棟で、入退院の事務と福祉連携を回している。端末にログインすると、今日の「手続き復権」パッケージが赤字で点滅していた。

『紙面同意を優先。電子署名は補助に降格』

またか、と思うより先に、耳元の小さなスピーカーが咳払いをした。

「早番、遅れるよ。印鑑箱、昨日補充した?」

母の声だ。私のエージェントは、五年前に肺炎で亡くなった母――吉岡澄子。生前、区役所の福祉窓口で、紙の申請書をさばいていた。

「補充した。朱肉も」

「朱肉の匂い、落ち着くのよね」

私の机の端には、匂い再現デバイスが置いてある。小さな円筒で、好きな匂いを呼び出せる。病棟では「情動安定」名目で配られている。

母の言うとおり、私は“朱肉”を選んで噴かせた。甘く金属っぽい香りが、夜勤の疲れを薄くする。

そこへ、介護タクシーの運転手が高齢の女性を車椅子で押してきた。付き添いは孫らしい青年。手には、色あせた写真の現像袋を握っている。

「すみません、入院の——」

青年は言い淀み、現像袋を胸に当てた。「これ、必要って言われて」

袋には、平成の店名が印刷されていた。チェーンの写真屋。紙が少し湿っていて、暗室の薬品の匂いがかすかに残っている。

「本人確認の“家族関係の根拠”に、写真でもいいって……」

端末の画面では、電子の家族連鎖が一部欠けている。遺伝子ネットワークの照合が薄い層で弾かれたのだろう。欠損のとき、最近は紙が勝つ。

「現像袋、開けてもいいですか」

青年が頷く。中には、少し黄ばんだL判が数枚。若い頃の彼女と、隣で笑う男性。裏面にボールペンで“平成十六年 夏”とある。

母が小声で囁いた。

「ほら、日付がある。紙は嘘つかない…って顔しやすい」

私は笑いかけそうになって、喉の奥で止めた。

次の問題は、退院後の居宅サービスの手配だった。青年は、祖母を自宅に戻したいという。ところが地区の担当事業所の割当が、今朝から“ブロックチェーン投票”で変わる。

待合の壁面ディスプレイに、投票のカウントが走る。

『第402ヘゲモニー期/居宅支援枠 再配分投票:残り 01:12』

投票権は、患者本人と近親者、そして一部の関係者に降ってくる。私は事務職でも、病棟の「ステークホルダー」枠で一票だけ持っていた。

「投票で決まるの、今日なんですか」青年が不安そうに聞く。

「ええ。…でも、紙の地図があれば大丈夫です」

私は引き出しから、折り目だらけの紙の地図を出した。平成の観光地図を、病棟がなぜか備品として残している。AR案内は病棟内で電波が反射して迷うし、古い住宅街はルートが時々“なかったこと”になる。

地図の角は丸まり、指にインクが付く。私はペンで、彼の家から最寄りの訪問看護ステーションまで、細い線を引いた。

「この道、坂です。車椅子だときつい。こっちの商店街を抜けて——」

「紙、助かる」青年が小さく息を吐いた。

投票は残り十秒。端末の上に、母の声が落ちてくる。

「迷うなら、あなたの手の届く方に入れなさい」

私は画面の候補を見比べた。効率の良い大手と、規模は小さいがこの地区を歩いて回っている事業所。アルゴリズム署名の正しさは、最近は誰でも覗ける。けれど、投票に“正解”は表示されない。

私は後者に一票を投じた。指先が軽く震える。

投票が締まり、結果が確定する。壁のディスプレイに、硬い文字が流れた。

『採択:地域小規模枠+1(暫定)』

青年が目を丸くした。「暫定?」

母が、朱肉の匂いの向こうで笑った。

「暫定でも、今日は動く。紙があるから」

私は現像袋に写真を戻し、袋の口を丁寧に折って渡した。紙の地図も、折り目に沿って畳み直し、彼の手に重ねる。

「これ、返します。……いちど、匂い、嗅いでみます?」

匂い再現デバイスのプリセットを“暗室の薬品”に切り替える。ほんの一瞬、現像液の湿った匂いが立ち上がり、青年の目が潤んだ。

「祖父が、写真屋だったんです」

彼は現像袋を握りしめた。祖母は、何も言わないまま、静かに頷いた。

私は窓の外を見た。空が薄く白んで、病棟の屋上アンテナが黒い影になっている。

母の声が、仕事終わりの私にだけ聞こえるくらいの音量で言った。

「ほらね。手続きって、時々、人を生かすために遅くなるの」

朱肉の匂いが乾く前に、私は次の紙束に手を伸ばした。暫定の朝が、ちゃんと今日の分だけ進んでいく。