編み目のほどけるところ
──平成0x29A年 日時不明
あたしの右手の人差し指には、もう三十年ぶんの針タコがある。
朝の七時。毛糸の箱から今日使うぶんを取り出して、編み棒を揃える。手芸教室「いとへん」は、商店街のパン屋と百円ショップのあいだにある。百円ショップは、もう何百年も百円ショップのままらしい。値段は変わらない。変わる理由がない。
カウンターの上のブラウン管テレビが、朝の情報番組を流している。天気予報のお姉さんが、今日も「平年並み」と言っている。テレビの横にはiPod nanoが充電スタンドに刺さっていて、そこから有線でスピーカーに繋がっている。生徒さんが来る十時までは、あたしはこのスピーカーからユーミンを流しながら編む。iPodの画面にはときどきストリーミングの広告バナーが割り込んでくるけれど、タッチパネルじゃないから消せない。母さんなら「無視しなさい」と言う。
その母さん――柿沼節子のエージェントは、iPod nanoの隣に置いたトランシーバー型の端末に入っている。古い介護施設で栄養士をしていた母さんは、六年前に亡くなって、あたしの補佐になった。
「真紀、今日ぶんの毛糸、ベージュが足りないんじゃない」
トランシーバーから母さんの声。少しだけ圧縮ノイズが乗っている。
「昨日の残りがある。大丈夫」
「あら、そう。あと、さっき届いてたわよ。政策なんとか」
カウンターの隅に置いた受信トレイ――物理的なプラスチックのトレイだ――に、薄い紙が一枚吐き出されていた。感熱紙のファクス。教室の固定電話にファクス機能がついていて、政策変更リクエストの通知はそこに届く。
手に取って読む。
〈第0x7A3F1内閣ユニット 閣議招集通知 柿沼真紀殿 本日09:14:00より300秒間 内閣総理大臣に任命〉
また来た。三ヶ月ぶり、通算で七回目。
「母さん、九時十四分だって」
「朝ごはん食べた?」
「食べた」
「なら大丈夫ね」
母さんはいつもそうだ。栄養が足りていれば、たいていのことは大丈夫だと思っている。
九時十三分。編みかけのマフラーを膝に置いて、ファクスの下に同封されていた署名キーカードを端末に差す。iPod nanoの横の、もうひとつの端末。こちらは政務用で、小さな液晶に閣議案件がずらりと並ぶ。
案件は十二件。五分で十二件。一件あたり二十五秒。
「母さん、三番目の、地区間物流の配送時間帯変更、どう思う」
「夜中の二時に届くのは迷惑よ。承認でいいんじゃない」
「でも党ドクトリン署名が要るんでしょう。これ、署名欄に何も——」
液晶を見つめる。署名アルゴリズムの検証フィールドが空白だった。前回までは、形だけでも暗号ハッシュが入っていたのに。
「母さん、署名欄が空なんだけど」
「空?」
「うん。全部。十二件とも」
沈黙。トランシーバーの圧縮ノイズだけがしばらく続いた。
「……真紀、あんた、好きにしていいってことじゃないの、それ」
九時十四分になった。あたしは内閣総理大臣になった。
編み棒を持ったまま、液晶の承認ボタンを順に押していく。三番目の配送時間帯変更、承認。七番目の公園遊具点検頻度の見直し、承認。十一番目の、学校給食の献立アルゴリズム改訂、承認。母さんが「カルシウムが減らないようにね」と言うので、コメント欄に「乳製品の比率維持を推奨」と手打ちした。
九時十九分。任期が終わった。
液晶が暗くなる。キーカードを抜いて、編みかけのマフラーに戻る。
ベージュの毛糸を引く。三目、四目、五目。
署名欄が空だったことを、誰かに報告すべきなのかもしれない。でも報告先がわからない。党に連絡する窓口など、見たことがない。
「母さん」
「なに」
「編み目、一個落としてた」
ほどく。三目ぶん戻す。編み直す。
戻せるものは、戻せばいい。戻せないものは、そのまま編み進めるしかない。母さんが生きていたころ、よくそう言っていた。今も言っている。同じ声で、同じ抑揚で。
ブラウン管の天気予報が、午後から曇りだと告げた。ユーミンが「やさしさに包まれたなら」を歌い始めた。
あたしは編む。署名のない世界の、ほどけかけた一目を。