現像されない年度末
──平成0x29A年03月31日 04:10
午前四時を過ぎた窓口フロアは、蛍光灯のうち三本に一本だけが点いている。省電力モードだ。年度末の深夜申請が可能になってから、こういう時間帯にぽつぽつと人が来る。
私はカウンターの内側で、使い捨てカイロを握っていた。三月末の夜明け前は底冷えする。旧さいたまエリアの行政サービスセンター第十一窓口。住所変更、届出受理、各種証明の発行。それが私の持ち場だ。
「お母さん、また寝てる?」
右耳のイヤーカフが微かに振動して、エージェントが応答する。
『寝てないわよ。あんたが暇だから私も暇なだけ』
母——中根弘子。享年六十一。膵臓がん。三年前に亡くなって、そのままエージェントに移植された。生前と同じく口が悪い。
自動ドアが開いて、冷気と一緒に男が入ってきた。五十代くらい。片手にフィルムカメラをぶら下げている。銀色のボディ、巻き上げレバー。コンタックスか何か。もう片方の手には、くしゃくしゃの紙片。
「すみません、これ、届いたんですけど」
紙片を受け取る。駐輪場の撤去警告札だった。手書きの日付、管理番号、位置情報ビーコンの照合コード。下部に「三月三十一日までに届出がない場合、処分」とある。今日だ。
「自転車を取り戻したいんです。届出に暗号署名がいるって言われて」
『あら、年度末ギリギリね』と母が耳元で言う。
私は端末を叩いた。旧型の液晶ディスプレイにiモード風のインターフェースが立ち上がる。メニュー階層が深い。「届出」「撤去物返還」「署名照合」。ビーコンの照合コードを入力すると、内閣ユニット第0x7B3Fの承認済み撤去命令に紐づいていた。
返還には本人の暗号署名と、発行元ユニットの対応署名が必要になる。
問題はすぐに出た。
「署名の暗号形式が合わないですね」
男が眉を寄せる。「合わない?」
「撤去命令を出したユニットの署名が旧ドクトリン準拠のv4なんですが、現行の返還申請フォームはv6を要求してます。年度の切り替わりで更新されたみたいで」
『よくある話ね』と母が言う。『あんたのお父さんも昔、似たようなことで窓口で怒鳴ってたわよ。懐かしい』
懐かしがらないでほしい。
男はカウンターにフィルムカメラを置いた。「今朝の始発の自動運転シャトルで来たんです。片道四十分。自転車がないとシャトルの停留所まで歩きなんですよ」
私は手動でバージョン変換を試みた。端末がフリーズした。再起動。蛍光灯が一本、ちかちかと瞬く。
『v4の署名、もう半分崩れてるわよ。ドクトリンのハッシュ自体が公開鍵と乖離してる』
母の指摘は正確だった。党ドクトリンのアルゴリズムは、こういう末端の手続きでいちばん先に綻ぶ。上のほうでは誰も直さない。
「すみません、少しお待ちください」
私は奥の棚からフォーム用紙を引っ張り出した。紙だ。炭素コピーの三枚綴り。ボールペンで書く。位置情報ビーコンの番号、駐輪場の管理コード、申請者氏名。署名欄には朱肉の印鑑。
男は黙って見ていた。それから、ふっと笑った。
「紙のほうが早いんですね」
「年度末だけの裏技です」
『裏技って言わないの。正規の代替手段よ』
母がうるさい。でも正しい。
書類を仕上げて、受理印を押した。返還票を渡す。男はカメラを持ち上げて、ふとカウンターごと私を——いや、窓口全体をファインダーに収めるような仕草をした。撮りはしなかった。フィルムがもったいないのかもしれない。
自動ドアが閉まり、外の冷気が遮断される。窓の向こうを、灯りを落とした自動運転シャトルが一台、音もなく通過していった。
端末が再起動を終えた。画面に通知。「v4署名の互換性パッチは次年度第一四半期に配布予定」。
来年度。つまり明日以降。つまり今日だけ、紙が正解だった。
『ほらね』と母が言った。『お役所仕事って便利でしょう』
私は使い捨てカイロを握り直して、次の客を待った。フロアの蛍光灯が、また一本消えた。