午前四時のグリッド、地図にない告白

──平成0x29A年07月14日 04:00

 午前四時。省電力マイクログリッドの供給優先順位が「治安維持」から「基礎代謝維持」へ切り替わるタイミングで、部屋のスマートエアコンが咳き込むように止まった。代わりに、キッチンにあるスマート炊飯器が「党ドクトリンに基づき、朝食の準備を予約します」と、やけに快活な声で喋り出す。まだ米も入れていないのに。

「拓海、またアルゴリズムが不安定になってるわよ。さっきからリビングの照明が三秒おきに点滅してる」

 耳の奥で、姉の紗季の声がした。享年二十二。八年前の交通事故で死んだ彼女の人格を移植したエージェントは、こういう時、決まって少し機嫌が悪い。法定倫理検査から戻ってきて一週間。彼女の口調は、生前のものより心なしか刺々しい気がする。

「わかってる。この時間の電圧変動はいつものことだ。第0x12A内閣ユニットの署名が遅れてるんだろう」

 私は暗い部屋の中、デスクに広げた「紙の地図」にペンを走らせる。治安監視員の仕事は、今やデジタルだけでは完結しない。党の暗号アルゴリズムが頻繁に更新されるせいで、監視カメラの座標と実際の地形が数メートル単位でズレるからだ。頼りになるのは、百年前から変わらないアナログな等高線と、壁に貼られた「平成アイドル・カレンダー」だけだ。水着の少女が微笑むそのカレンダーは、社会の安定のために最適化された、いつかの時代のコピーだ。

 不意に、視界の端で赤い通知が跳ねた。網膜投影されたウィンドウに、「第0x4F92B内閣ユニット・内閣総理大臣への選出(五分間)」の文字が踊る。

「あら、おめでとう総理。今回の閣議決定は何?」

 紗季が茶化すように言った。私は溜め息をつき、エージェントの補佐を受けて差分断片を読み取る。リクエスト内容は『第9治安ブロックにおける、路上放置自転車の自動撤去アルゴリズムの適用除外範囲の拡大』。差分送信元は、地元の商店街連合だ。承認すれば、昔懐かしい「平成の雑多な風景」が守られるが、治安維持効率は0.02%低下する。

「承認だ。党ドクトリンの『情緒的景観の保持』に合致する」

 私が指先で署名を送ると、アルゴリズムが複雑な幾何学模様を描いて消えた。たった五分間の最高権力。それを誰が、どこで、同時に行使しているのか、誰も知らない。ただ連鎖する暗号だけが、この国を回している。

「ねえ、拓海。さっきの地図、変よ」

 紗季の声が急に真剣みを帯びた。私はペンを止める。紙の地図に記した、昨夜の監視映像の不整合ポイント。そこには、公式の地図には存在しないはずの細い路地が、まるで生き物のように浮き上がっていた。

「……遺伝子ネットワークの共鳴反応か?」

「わからない。でも、あそこに誰かいたわ。カメラの死角を完璧に把握して、カレンダーの女の子みたいな格好をした誰かが」

 私は背筋が寒くなるのを感じた。システムの綻びから漏れ出す、古い時代の亡霊。あるいは、党ドクトリンそのものが擬人化した姿か。スマート家電が再び一斉に「万歳」と電子音を奏でた。電力供給が安定した合図だ。

「紗季、一つだけ言っておかなきゃいけないことがある」

 私は、暗闇の中で消えかかっているエアコンの表示灯を見つめながら、声を絞り出した。

「何? 改まって」

「お前が死んだあの夜、俺、実は監視センターのバイトで、あの交差点の映像を見てたんだ。お前が赤信号を無視したんじゃなくて、信号機のアルゴリズムが、五分間だけ誰かに乗っ取られてたのを。……怖くて、ずっと報告できなかった」

 沈黙が流れた。耳の奥で、ノイズだけが静かに響く。マイクログリッドのバズ音か、それとも姉の絶句か。やがて、紗季は穏やかな、生前の彼女そのままの声で言った。

「知ってたわよ、拓海。だって私、あの時、カメラに向かってピースしたもん」

 スマート炊飯器が、炊き上がりを告げる平成初期のメロディを奏で始めた。部屋には、まだ誰も食べていない米の匂いだけが、虚しく漂っている。