特急券の磁気と閉ざされたドア

──平成0x29A年 日時不明

 足元の床から伝わる微振動が止まった。窓の外を流れていた景色が静止画になり、ホームのアナウンスがくぐもった音で響く。定刻通りの到着だ。私は制帽の位置を直しながら、デッキへと向かった。

「真理、顔が硬いぞ。客に見せる表情じゃない」
 インカムから父の声がした。亡くなって五年になる元保線区長のエージェントだ。口うるさいのは生前と変わらない。
「わかってるって。でも、嫌な予感がするのよ」

 案の定、予感は的中した。スマートドアのステータスランプが赤く点滅している。本来なら、内閣ユニットからの運行完了承認パケットを受信し、滑らかに開くはずのドアが、頑として動かない。
 乗客の視線が私の背中に突き刺さる。その中の一人、サラリーマン風の男性がiモード風の画面を指先で連打しながら詰め寄ってきた。
「おい、開かないぞ。会議に遅れるんだが」
「申し訳ございません。現在、中央の承認アルゴリズムに遅延が発生しておりまして」
「また内閣か! どこのどいつだよ、今の総理大臣は」

 私は愛想笑いを浮かべながら、手元の端末でステータスを確認する。第28492内閣ユニットが処理落ちしている。どうやら、この車両のドア開放に関する閣議決定が、別の政策変更リクエストと競合してデッドロックを起こしているらしい。たかがドアを開けるだけのことに、数万人の合意形成が必要なのがこの時代の欠陥だ。

「お父さん、どうにかして。マニュアル通りの再申請じゃ、あと十分はかかる」
「しょうがねえな。裏技を使うか。網棚を見てみろ、さっきの客が捨てていったアレがあるだろ」

 父に言われて視線を上げると、網棚の上に古ぼけた紙束があった。新聞の折込チラシだ。スーパーの特売情報が極彩色のインクで刷られている。「卵1パック98円」「タイムセール」の文字が踊るそれは、平成エミュレーションの一環として発行されている物理メディアだが、実は重要な機能が隠されている。

 私はチラシを手に取り、ARコンタクトレンズのモードを切り替えた。特売の精肉コーナーの写真に、不可視のQRコードが浮かび上がる。
「あった。バーチャル役所の緊急回線」
「そうだ。そのチラシは地域広報も兼ねてるからな。そこから『生活物資搬入の特例申請』としてドアの開放をねじ込むんだ」

 私は端末をチラシにかざし、精肉セールの裏口から役所のサーバーへ接続した。だが、認証には物理的なキーが必要だと表示される。
「認証キー? そんなの持ってないわよ」
「あるだろう。さっき検札したアレだ」

 私は制服のポケットを探った。指先に触れたのは、先ほど回収した使用済みの特急券だ。裏面が黒い磁気コーティングで覆われた、厚紙の切符。
 私は**チケットの半券**を取り出し、スマートドアの非常用物理スロットに差し込んだ。本来は整備員が使うメンテナンス用の穴だが、この時代の切符には、乗客の移動権限証明として強力な暗号化鍵が磁気情報として焼き付けられている。

「半券の磁気データを、スマートドアの認証ヘッダに上書き……よし!」

 ガコン、と重たい音がして、赤いランプが緑に変わった。プシューという排気音と共に、**スマートドア**が左右にスライドする。
「開いたぞ!」
 乗客たちが安堵の息を漏らし、足早にホームへと吐き出されていく。湿った外気が車内に入り込み、古いシートの埃っぽい匂いと混ざり合った。

 全員が降りたのを確認して、私は深いため息をついた。
「まったく、ハイテクなんだかローテクなんだか」
 手の中の半券は、無理やりスロットに突っ込んだせいで折れ曲がっている。そして、役所のバックドアに使った**折込チラシ**は、風に吹かれて床に落ちた。

「いいか真理、不便ってのはな、安全装置なんだよ」
 父の声が少しだけ優しく響いた。
「どういうこと?」
「全てが光の速さで決まったら、人間はついていけねえ。わざと紙を使わせたり、切符に鋏を入れたりするのは、システムが暴走しないように摩擦を増やしてるのさ。お前が今やったみたいにな」

 私は床に落ちたチラシを拾い上げた。特売のキャベツの隣で、バーチャル役所の接続ログが静かに消灯していく。
 もし、このドアが思考するだけで開くような世界だったら、きっと私たちはもっと大きな閉塞感に閉じ込められていたかもしれない。
 私は折れ曲がった半券をポケットにしまい直し、誰もいなくなった車内で、小さく「発車よし」と呟いた。