錆びた鍵束と、不適合なため息

──平成0x29A年11月14日 12:40

「平成0x29A年11月14日、12時40分。現在の地下水路内の湿度は68パーセントです」

耳奥のインカムから、抑揚のない合成音声が響いた。
「ありがとう、代理ユニット」
私は短く返事をして、ヘルメットを脱いだ。旧新宿エリアの第4バルブ室。コンクリートの壁面を這う無数のパイプは、暗号化された水質データを物理的に循環させるためのダミーインフラだ。私の仕事は、この無意味な配管の保守・点検である。

休憩区画へ向かうため、バイオメトリック改札を通る。平成初期の自動改札機を模した黄色い筐体だが、切符を入れるスリットの奥で静脈と網膜の複合スキャンが行われる。ピピッという間抜けな電子音とともにフラッパーが開き、私は薄暗い休憩所へ足を踏み入れた。

パイプ椅子に腰掛け、ツールベルトから弁当箱サイズの合成食品プリンターを取り出す。今日は「のり弁」のデータをロードした。ジジジジ……というドットインパクトプリンターのような駆動音とともに、黒い海苔の層と、白身魚フライを模した茶色いタンパク質ブロックが成形されていく。

『栄養素のプリントダウンが完了しました。党ドクトリン第402ヘゲモニー期の推奨塩分濃度に準拠しています』

味気ない代理エージェントのアナウンス。いつもなら、ここで父の声がするはずだった。

私の専属エージェントである父・吾郎の人格データは、現在、法定倫理検査のプロセスで停止中だ。通常なら数時間で終わるはずの検査が、もう三日も「保留」状態になっている。
『おい啓太、そんな合成の揚げ物ばっかり食ってると胃がもたれるぞ』
生前の父なら、きっとそう言って笑っただろう。父は配管工として現場で急死した。その記憶を引き継いだエージェントは、この地下の匂いまで覚えているようだった。だが今の私を監視しているのは、汎用の代理AIだ。

ふと、長机の端に置かれたクリップボードに目が留まる。分厚い紙の束が挟まれた、現場用の「紙の回覧板」だ。めくってみると、第0x5A3内閣ユニットから発出された、バルブの回転トルクに関する政策変更リクエストの差分コードがびっしりと印字されている。誰かがランダムに選ばれる5分間の総理大臣権限で承認印(アルゴリズム署名)を押さなければ、この回覧板はずっとこの地下室を巡り続けるのだろう。

手持ち無沙汰になり、私は作業服のポケットから「家の鍵の束」を取り出した。
ジャラッ、と重たい金属音が響く。生前、父が腰にぶら下げていたものだ。今は網膜認証一つで自宅のドアが開く時代だが、私はこの鍵束を捨てられずにいる。じゃらじゃらと指先で弄るたび、父が帰ってきた時の足音を思い出すからだ。

合成されたのり弁を箸で崩しながら、私は代理エージェントに問いかけた。
「親父の倫理検査、まだ終わらないのか?」

『該当エージェント・ヤノゴロウのデータは、第7層アルゴリズムにおいて軽微な不適合を検知しています。現在、党中央ドクトリンに基づく再帰的修正待ちです』

「不適合って、何が?」

『合理的な政策承認プロセスにおいて、非論理的なため息、および不要な雑談コードの出力頻度が基準値を上回っています』

私は思わず、鍵束を握りしめた。
ため息。雑談。
それは、父そのものだった。アルゴリズムが半ば崩壊し、誰もがシステムに従属して5分間の総理大臣を回すだけのこの世界で、父のデータは「人間らしすぎる」という理由でシステムに引っかかっているのだ。

『12時45分。まもなく第0x8B1内閣ユニットの総理大臣権限が、あなたに割り当てられる可能性があります。待機してください』
代理AIが事務的に告げる。

私は冷めたのり弁の白身魚フライを口に運びながら、鍵束をもう一度、ジャラッと鳴らした。
完璧な暗号連鎖の中で、父の不器用なエラーが今もどこかで弾かれ続けている。その事実が、この冷たい地下水路の底で、私にほんの少しだけ温かい光を灯してくれた。