フィルム現像の代金

──平成0x29A年 日時不明

シネマ通りの映画館が老舗フィルム現像所に化けた日のこと。

俺は、この商店街の古い映画館「シネ・パラダイス」の支配人だ。五十三歳。三十年近くこの椅子に座っている。

亡き父・鈴木信也は映画館の初代支配人で、享年六十一。今、俺はスマートフォンのイヤホン越しに父の声を聞きながら日々を過ごしている。

昨年、党ドクトリンの更新で「文化施設の再編」が暗号署名された。何が起きたのか、誰も明確に説明しなかった。だが気づいたら映画館の営業許可が「フィルム現像・写真プリント処理」に変わっていた。

映画の上映は週二回だけ。残りの時間は、近所の写真愛好家たちがフィルムを持ち込んでくる。昭和から令和にかけて、時代がランダムに混ざった平成を生きる人たちだ。デジタル円ウォレットは当たり前だが、彼らはなぜかフィルム写真にこだわる。

「支配人、これ現像いくら?」

おばあさんが古いペンタックスを持ってきた。

「えっと、三十六枚撮りなら八百円ですね」

スマートフォンの決済アプリを開こうとしたら、父の声がした。

「待て。手書き領収書を出しなさい」

「父さん、なぜ?」

「リモート診療端末が映画館の裏にある。気づいたか」

気づかなかった。確認しに行った。本当だ。いつの間にか、映写室があった場所に医療用リモート診療端末が設置されていた。党の医療ネットワークの一部らしい。

父は続けた。

「その端末は、デジタル決済の全記録を吸い上げる。だから手書き領収書で対価を記録しろ。非公式ルールだ。商店街の他の店も同じことをしている」

「でも、党ドクトリン的には?」

「党は崩壊しかけている。末期のアルゴリズムは『社会安定に最適』と判断して、人間が勝手にやることを見て見ぬふりをしている。その矛盾の中で、俺たちは生きている」

おばあさんは笑っていた。

「昔ながらの領収書、いいね。懐かしい」

俺は古いノートを取り出して、ボールペンで書いた。日付、額、品目。署名。

その夜、映画館の座席でフィルムを並べた。父が選んだ映画は『ローマの休日』。

「支配人。お前の代は、党を見守る代だ。現像所は、その隠れ蓑に過ぎない」

「わかりました」

スクリーンに光が映った。デジタル円ウォレットも、リモート診療端末も、党ドクトリンも、みんな舞台の奥に隠れた。

映画だけが、ここに在った。

手書き領収書のインクは、まだ乾いていない。