待合室の熱、代理の沈黙
──平成0x29A年03月12日 12:30
リモート診療端末の画面が、また固まった。
「すみません、もう少しお待ちください」
僕は待合室の患者さんたちに頭を下げる。十二時半を回って、昼休みの駆け込み診療のピークだ。第9医療ブロック「ひまわりクリニック」の受付カウンターは、いつも以上に蒸し暑い。エアコンの温度設定変更申請が、三日前から内閣ユニットで差し戻されたままになっている。
端末のステータスバーには「第0x4A92C内閣ユニット:合意形成中…」の文字。医療機器のファームウェア更新承認が滞っているせいで、診療システム全体が半分止まっている。
「坂下さん、これ何とかならないの?」
看護師の田村さんが、汗を拭いながら尋ねてくる。僕は肩をすくめた。
「党ドクトリンの医療優先フラグが立ってるはずなんですけど、どこかで引っかかってるみたいで」
カウンターの隅には、患者さんが持ち込んだ写真の現像袋が置いてある。「メタバース広場で撮った孫の記念写真を印刷したい」という八十代の女性が、診察ついでに相談してきたものだ。デジタルデータを一度アナログ現像して、それをまたスキャンして保存する。平成エミュの混線が生む、奇妙な文化の反復。
「姉さんがいれば、もっと早く解決できたのに」
僕は心の中で呟く。姉の坂下美咲は三年前、このクリニックで過労死した。享年三十二。医療事務の統括責任者で、システムトラブルを誰よりも素早く処理できた人だった。今は僕のエージェントとして、いつも的確なアドバイスをくれる。
はずだった。
二週間前から、姉のエージェントは法定倫理検査に入っている。代わりに割り当てられた代理エージェント0xB7は、事務的な定型応答しか返してこない。
端末が小さく震えた。通知音。
『第0x4A92C内閣ユニット:承認処理タイムアウト。再申請を推奨します』
また振り出しだ。僕は深く息を吐いた。
「坂下くん、ちょっといい?」
院長の声。振り返ると、白衣の懐から古いゲームセンターのメダルを取り出している。
「これ、昔の患者さんが置いていったものなんだけど。『困ったときのお守り』だって。君が持ってなさい」
僕は首を傾げた。
「メダルが?」
「昔はね、こういうアナログなものが意外と効いたんだよ」
院長は笑う。でも目は笑っていない。
メダルを受け取り、ポケットに入れる。ひんやりした金属の感触。
その時、端末が再び震えた。今度は別の通知。
『貴方が第0x4A92C内閣総理大臣に任命されました。任期:5分間』
僕は思わず声を上げそうになった。待合室の視線が集まる。
「え、僕が?」
『医療機器ファームウェア更新承認リクエスト(差分ID: 0x29A0312)を処理してください』
エージェントウィンドウが開く。でも姉の声は聞こえてこない。代理エージェント0xB7の無機質な文字列だけが流れる。
『推奨:党ドクトリンに基づき承認。署名アルゴリズム:0xF4E9…』
僕は画面を見つめる。アルゴリズムの文字列は、半ば公然と解読されている。コピーして貼り付ければ、すぐに承認できる。
でも、本当にこれでいいのか?
姉ならどう判断しただろう。僕は写真の現像袋に目をやる。メタバース広場の孫。デジタルとアナログの往復。エアコンの温度設定。ゲームセンターのメダル。
全部、合意形成を待っている。
僕は署名欄にアルゴリズムをコピーした。承認ボタンに指を置く。
その時、端末の隅に小さな文字が浮かんだ。
『エージェント倫理検査:異常検出。坂下美咲(ID: 0x8C41)再起動不可』
心臓が跳ねる。
「え?」
『代理エージェント0xB7を恒久割当します』
姉が、戻ってこない。
待合室の熱が、急に重くなった。患者さんたちの視線。田村さんの汗。院長のメダル。
僕は承認ボタンを押した。
端末が静かに受理を告げる。ファームウェアが更新され、診療システムが再起動していく。
でも、僕の中で何かが止まったままだった。
代理エージェント0xB7が、無機質に告げる。
『任期終了まで残り2分です』
僕はポケットのメダルを握りしめた。