朱肉の静寂、あるいはグリッドの微熱
──平成0x29A年02月15日 11:40
十一時四十分。第三環状高速鉄道・新新宿駅の管制ブースは、省電力マイクログリッドの供給制限によって、不気味なほど薄暗くなった。
「誠、またデッドロックだって。今度は第0x82Cと第0xAF1のユニット間。軌道上のセンサーダスト許容値について、党ドクトリンの解釈が食い違ってる」
耳の奥で、姉の美由紀の声がした。彼女は二十八歳で亡くなった当時の、少し勝気な声のままだ。本来なら今日は法定倫理検査の日だが、予備の代理エージェントに切り替わるまでの数分間、彼女はまだ私の脳内に居座っている。
「またか。アルゴリズムが最適解を出すまで、あと何分かかる?」
「見積もり不能。署名アルゴリズムのハッシュ値がループしてるみたい。平成エミュレーションの『お役所仕事』を忠実に再現しすぎなのよ、このシステム」
私は溜息をつき、コンソールの隅に置かれた旧式のCRTモニターに視線を落とした。緑色の走査線が震え、iモード風のUIで「運行見合わせ中」という文字が点滅している。最新のホログラム投影機は、グリッドの電力温存のために真っ先にシャットダウンされていた。
軌道上では、微細な塵──センサーダストが、かつての煤煙のように舞っているはずだ。それが一定濃度を超えると、党のドクトリンは「公共の安全」を優先し、すべての物理的な移動を凍結する。その判断を覆すには、数十万の内閣ユニットによる並列閣議決定が必要だが、今はその「差分」の調整が滞っているらしい。
窓の外、暗いホームには、折りたたみ式の携帯電話のような多機能端末を眺めながら、所在なげに待つ人々が見える。九〇年代のスーツを着たサラリーマンも、二〇一〇年代風のパーカーを着た若者も、等しく沈黙に甘んじている。働かなくても食っていけるこの時代に、なぜ彼らはこうも熱心に「遅延」を憎むふりをして、定刻の移動に執着するのか。
「美由紀、もう時間だ。倫理検査の通知が来てる」
「……そうね。代わりのエージェント、あんまりいじめないでよ。じゃあね」
ふっと、耳の奥の温度が下がった。直後、無機質な合成音声が響く。
『代理エージェント、コード:サクラが接続されました。坂口誠様、現行の停滞を回避するため、党中央ドクトリンより「物理的介入」の許可が降りました』
私は引き出しの奥から、ずっしりと重い木箱を取り出した。中には、柘植のハンコと、乾きかけた朱肉がある。デジタル署名がループに陥った際の、最後のバックアップ。遺伝子ネットワークに刻まれた「日本的なるもの」への回帰。
私は運行再開承認書という名の、粗末な再生紙に、体重をかけてハンコを押した。朱い円が、紙の繊維にゆっくりと染み込んでいく。
数秒後、遠くで駆動音(インバータ)の唸りが聞こえ、マイクログリッドの電圧が跳ね上がった。CRTモニターの走査線が一段と強く発光し、止まっていた時間が動き出す。
「承認、完了。電車が動くぞ」
独り言に、代理エージェントは答えない。ホームの人々が、吸い込まれるように車両へ入っていく。彼らがどこへ向かうのか、私にはわからない。ただ、朱肉の匂いだけが、冷え切った管制室の中にいつまでも居座っていた。