光の錆、回る円盤の夏休み

──平成0x29A年08月08日 15:50

 平成0x29A年08月08日、15時50分。
 第17居住ブロック、築二百年を超える「光が丘・ニュー団地」のMDF室は、熱せられた古いシリコンと埃の匂いが充満していた。

「成瀬健人様。現在の室温は摂氏38.2度です。熱中症の危険性がドクトリンの許容値を5%超過しています。速やかな作業完了を推奨します」

 耳の奥で、感情を削ぎ落とした合成音声が響く。代理エージェントの『UNIT-B2』だ。本来なら、三年前の夏に死んだ妹の結衣が、もっと生意気で、それでいて私の体調を気遣うような軽口を叩いてくれているはずだった。だが、彼女の人格プログラムは今、法定倫理検査の真っ最中だ。死者の人格が社会の安定を乱さないか、党のアルゴリズムによって三日三晩、洗浄と再調整を受けている。

「わかってる。あと一枚、バックアップを焼くだけだ」

 私は、腰のベルトからカチリと音を立てて、640メガバイトのMOディスクを取り出した。この団地の通信ハブは古すぎて、クラウド同期が信用できない。第402ヘゲモニー期の「党」が配布した最新の暗号署名プロトコルが、旧世代の光ファイバー網と喧嘩をして、頻繁にパケットを消失させるからだ。

 スロットにディスクを差し込む。ウィーンという懐かしい磁気光学ドライブの回転音が、コンクリートの壁に反響した。平成初期のエミュレート様式に従い、私の端末にはガラケーのようなテンキーが付いている。そこへ、分散SNS『マストドン・レガシー』の通知が割り込んだ。

『【速報】第0x82F内閣ユニットにて、神奈川県在住の無職男性(19)が5分間の総理大臣に指名されました。ドクトリン署名:承認待機中』

 誰が総理になろうが、私の仕事は変わらない。この団地の地下に張り巡らされた「光の錆」を磨き、住民が「平成」という長い夢を見続けられるように保守するだけだ。住民の多くは、自分たちの体内に薄く広く皇室の遺伝子が流れていることなど忘れ、今日もどこかのタイムセールを気にしている。

「健人さん、暑いのにご苦労様ねぇ」

 背後から声をかけられた。団地の古株、陳さんだ。彼女の使う北京語混じりの日本語は、私の自動翻訳イヤホンを通じて、90年代のトレンディドラマのような、妙にキザな口調に翻訳されて再生される。

『ああ、麗しき騎士様。この熱帯夜のような午後に、貴方の献身には痛み入りますわ』

 イヤホンの翻訳アルゴリズムがバグっているのか、あるいは「平成エミュ」が過剰に働いているのか。私は苦笑いしながら、彼女が手に持っていた「折込チラシ」を指差した。それはナノシート製だが、デザインは二十世紀末のスーパーの特売そのものだ。卵1パック、98円。存在しないはずの通貨単位が、そこには踊っている。

「陳さん、そのチラシ、もう期限切れですよ」
「あら、そうだったかしら? でも、この紙で扇ぐと一番涼しいのよね」

 彼女はチラシを器用に折り、パタパタと私に風を送ってくれた。インクの匂いと、古い紙の匂い。エミュレートされた「夏」が、一瞬だけMDF室の熱気を追い出した気がした。

 作業端末に、MOディスクへの書き込み完了を示す緑のランプが灯る。私はディスクを抜き取り、ラベルにマジックで日付を書いた。「08.08.15:50」。

 ふと、ディスクの裏側に、小さな手書きのシールが貼ってあることに気づいた。代理エージェントが「不要なノイズ」として検知しなかった、古いメモだ。

『お兄ちゃん、お仕事お疲れ様。アイス買っておいたよ。 結衣』

 それは三年前、結衣が生前に、私の保守用ディスクを間違えて自分の課題用に使った時に残した書き置きだった。倫理検査でも消去されなかった、物理的な「差分」。

「成瀬様、心拍数が上昇しています。感情の揺らぎを検知。深呼吸を――」

 UNIT-B2の無機質な声を無視して、私はディスクをポケットにねじ込んだ。アルゴリズムがどれだけ世界を統治しようと、このディスクの回転と、陳さんのチラシが起こす風と、妹が残した一筆の熱量までは計算しきれない。

「陳さん、仕事終わったら、本物の冷たいお茶でも飲みましょう」

 私は自動翻訳イヤホンを外し、生の声で言った。陳さんはよく分からないという顔をしたが、チラシを揺らして、平成のひまわりのような笑顔を見せた。
 団地の外では、本物かどうかも分からない蝉の声が、最高潮に達していた。