四月の巻き戻し、カレンダーの釘穴

──平成0x29A年04月05日 16:00

壁のカレンダーが一枚めくれていなかった。四月のままでいい、と思ったのは昨日のことだ。正確には、三月のページを剥がし忘れていたのを夕方になって気づいた。桜のイラストが印刷された四月面がようやく顔を出して、今日はその四月五日。

午後四時。ベランダの物干し竿が風に揺れて、かすかに金属音を立てている。第11居住ブロック、棟番号C-4、五階。私の部屋。

「かおる、洗濯物」

イヤピースの中で母さんの声がした。エージェントの声。正確には、三年前に膵臓の病気で死んだ母の人格を移したもの。生前より少しだけ声が高い気がするのは、たぶん私の記憶が補正をかけているせいだ。

「わかってる」

ベランダに出ず、代わりにテレビ台の下を覗き込む。VHSテープが七本、背表紙のラベルが黄ばんで並んでいる。母さんが生前——本当の生前、人格移植よりずっと前に——録りためた料理番組。団地の共有デッキが去年壊れてから再生する手段がない。でも捨てられない。

「また見てる。かおる、あれはダビングしたほうがいいって何度も」

「デッキがないんだってば」

「じゃあ買いなさいよ。ネットで」

母さんのエージェントが言う「ネット」は、たぶんiモード画面みたいなあのポータルのことだ。私はガラケーを開いて検索した。再生デッキ、中古、三件。どれも「棟内取引のみ」と書いてある。

ここの棟には非公式のルールがある。大型家電・映像機器の売買は棟の管理委員会——といっても五階の野口さんと三階の陳さんが交代でやっているだけだが——を通さないといけない。公式の制度にはそんな規定はない。だけど棟の改札を通る荷物は生体認証と連動していて、管理委員会が「棟内配送承認」のハンコを押さないと受け取りボックスが開かない仕組みになっている。バイオメトリック改札が指紋と虹彩を読んで、承認リストと照合する。リストに載っていなければ、荷物は三日で返送される。

公式システムの上に、非公式の手続きが乗っかっている。誰が始めたのかは知らない。野口さんは「前の委員長から引き継いだ」と言うし、陳さんは「棟のドクトリンだよ」と笑う。党のドクトリンと棟のドクトリン。どっちも出所不明で、どっちもなんとなく従っている。

「野口さんに頼めばいいじゃない。あの人、お母さんの漬物好きだったでしょ」

母さんはもういないのに、母さんのエージェントが母さんの漬物を交渉材料に出す。おかしな話だ。でもレシピは確かにエージェントの中にある。

私はガラケーを閉じて、壁のカレンダーに目をやった。四月五日の欄に小さく「倫理検査」と母さんの字——いや、私が母さんの字を真似て書いた字がある。来週だ。検査の間、母さんは一時停止する。代わりに来る代理エージェントは、漬物のレシピなんて知らない。

「……今週中に頼んでみる」

「えらい。ついでに四月のカレンダー、釘が緩んでるから打ち直して」

立ち上がって壁に近づくと、確かに釘が数ミリ浮いていた。指で押すとカレンダーがわずかに揺れて、桜の絵が傾いた。

引き出しから金槌を探す間に、ふと思った。母さんが録ったあの料理番組は、この時代よりさらに前の時代を映しているのだろうか。それとも、この時代そのものが誰かの録画の再生なのだろうか。

釘を一打ち。カレンダーがまっすぐになった。

「いい音」と母さんが言った。

それだけで、今日はもう十分だった。