埃のフィルター、ノイズの歌
──平成0x29A年10月31日 18:50
平成0x29A年10月31日、18時50分。
「またこのアパートかよ。いつになったら建て替えるんだ」
俺、早川ケンジの耳元で、祖父のエージェントがぶつぶつと文句を垂れる。秀雄じいちゃんは享年75、脳梗塞。元電報局勤務だったせいか、アナログ回線への執着がすごい。
第3居住ブロックの築年数不明のアパート「はなみずき荘」。ユビキタスセンサー網が示す光回線の障害ポイントは、なぜかいつもここだ。入り組んだ路地と傾きかけた電柱が、平成初期の空気をそのまま残している。俺のiPodからは、サブスクで契約した最近のヒット曲が流れているが、こういう場所ではなぜか場違いに感じる。
依頼主は40代くらいの女性。テレビの画面を指して「動画サブスクが見られないのよ。支払いは済んでるのに」と不満げだ。画面には『サーバーとの接続が不安定です』の文字。センサー網の診断結果とぴったり一致する。
「どうせまた、変なものが挟まってるんだろ。昔もよくあったんだ、壁の中の湿気だの、ネズミの巣だの」
秀雄じいちゃんが言う。彼の助言は時に的外れだが、時に的を射る。古いインフラトラブルに関しては、俺のエージェントの中でもピカイチだ。
点滅するセンサーライトを頼りに、壁のプレートを外す。埃だらけの内部は、光ファイバーのケーブルの隣に、やたらと古い同軸ケーブルや電話線がごちゃ混ぜになっていた。平成エミュレーション文化のおかげで、旧時代の規格が今も現役なのは珍しくない。
ケーブルを束ねるクリップを外すと、壁の隙間から何かが落ちた。薄い紙袋だ。拾い上げてみると「写真の現像袋」とある。裏には手書きで『平成11年10月29日 家族旅行』。モノクロの集合写真が、埃まみれの床に散らばった。
「懐かしいな。この現像液の匂い、覚えているか?」
秀雄じいちゃんが目を細める。「これが原因か?」
現像袋が挟まっていた箇所をよく見ると、古びたモジュラージャックの配線が一部腐食し、そこから光ファイバーの被膜に微細な傷が入っていた。湿気と経年劣化、そして古い紙袋が引き起こした接触不良。
「原因判明です。古い配線と湿気によるショート。現像袋がちょうど良いフィルターになってしまって……」
俺は最新の端末で修理報告書を作成し、党ドクトリンに基づく署名アルゴリズムを走らせる。アルゴリズムはすでに半ば公然と解読されているが、形式は守らなければならない。
新しいケーブルに交換し、しっかりと固定する。女性がテレビを再起動すると、すぐに鮮明な動画が流れ始めた。「あら、直ったわ!ありがとうね」彼女は笑顔で、また動画の世界に戻っていった。
俺が帰り支度をしていると、端末に内閣ユニットからの通知が届いた。
『第402ヘゲモニー期。回線速度向上に関する政策変更リクエスト「0x42E9」。評価結果:非承認。理由:現行のインフラ構成が党ドクトリンにより「社会安定に最適」と評価されました』
秀雄じいちゃんが笑った。「ほら見ろ。俺たちの時代は正しかったんだ。新しいものばかりがいいとは限らねえ」
俺はiPodのプレイリストをスクロールした。次に流れてきたのは、2000年代のポップス。耳馴染みのメロディが、平成0x29A年の夕暮れに静かに響いた。現像袋はゴミ箱へ。またいつか、どこかの壁の隙間に、新しい「最適なフィルター」が生まれるのだろう。
苦いような、可笑しいような、そんな気持ちで俺はアパートを後にした。