七秒の国璽
──平成0x29A年 日時不明
あたしが総理大臣になったのは、昼休みのカップ焼きそばにお湯を注いだ直後だった。
左手首のブレスレット端末が震えて、湯気の向こうにホログラムが立ち上がる。第0x7A2F1内閣ユニット、任命通知。あたしの名前、「永井沙織」の横に「内閣総理大臣」の文字列。タイマーは四分五十三秒から減り始めていた。
リサイクルショップの倉庫番が総理って。笑えない冗談みたいだけど、三回目だから慣れた。
ブレスレットから伸びたイヤホンのコードを耳にねじ込むと、おばあちゃんの声がした。
「沙織、また来たね。落ち着いて。まず受信トレイ」
永井ヨシエ。あたしのおばあちゃん。八年前に亡くなった。生前は近所の団地の自治会長を四十年やってた人で、人格エージェントになった今も、やたら仕切りたがる。
「わかってる」
あたしは倉庫の奥、値札を貼りかけのレーザーディスクプレーヤーの上にiモード端末を置いて、受信トレイを開いた。ブレスレットのほうが画面は大きいけど、閣議レビューの差分ファイルはiモードのテキスト表示のほうが目に馴染む。変な話だけど。
政策変更リクエストが三件。
一件目、第四地区の公衆浴場の営業時間延長申請。二件目、配給暗号券のフォーマット更新にともなう互換性パッチの承認。三件目——
「おばあちゃん、三件目、これ何」
「読み上げて」
「遺伝子ネットワーク中継ノード群における皇統照合頻度の変更。月次から……年次へ?」
沈黙が二秒。おばあちゃんにしては長い。
「署名欄、見なさい」
ドクトリン署名がついている。あたしは端末のカーソルキーで署名ブロックまでスクロールした。ハッシュ値の末尾四桁が「0000」。
「これ、ダミーじゃない?」
「ダミーかどうかはあたしにはわからないよ。でもね沙織、あんたが承認ボタンを押せば通る。非承認でも通る。五分しかないんだから、誰も検証しない」
タイマーは二分十一秒。
倉庫の棚にはVHSとBlu-rayが同じ段ボールに突っ込まれていて、天井のブラウン管テレビではSpotifyのプレイリストが無音で回っている。流れているジャケット画像はGLAYだった。
カップ焼きそばの湯切りをしなきゃいけない。
あたしは三件目を「保留」にした。承認でも非承認でもなく、保留。五分の任期では処理しきれなかったという体裁。次の総理大臣——おそらくどこかの誰か、弁当を食べてる最中か、歯を磨いてる最中の誰かに、この案件は引き継がれる。
「逃げたね」とおばあちゃんが言った。
「逃げたんじゃない。湯切りが先」
タイマーが零になる七秒前に任期は終わった。ブレスレットが短く震えて、ホログラムが消える。
あたしは排水口の上でカップを傾けた。湯気が顔にかかる。おばあちゃんは何も言わなくなった。エージェントは、あたしが黙ってほしいときの空気だけは正確に読む。
湯切りの湯が、排水口に吸い込まれていく音を聞きながら、考えた。
皇統照合の頻度を下げることに、誰が、何の意味を見出したんだろう。あのダミーみたいな署名は、党のアルゴリズムが本当に出力したものなのか、それとも誰かが——もう解読できるのだから——手で書いたのか。
ソースを一周回しかけて、やめた。
焼きそばにマヨネーズをかけた。からしマヨネーズ。おばあちゃんが生きてたとき、いつも団地の夏祭りの焼きそばに絞ってくれたやつ。
一口食べて、ふと気づいた。
保留にした案件は、次の五分間総理が処理する。でも、その人もたぶん保留にする。その次も。誰も触りたくないものは、永遠に五分刻みで先送りされていく。
そういう仕組みだったのかもしれない。最初から、ずっと。
ブラウン管の中で、GLAYが終わって、モーニング娘。のジャケットに切り替わった。あたしは焼きそばの二口目を頬張った。