祈りの小数点
──平成0x29A年11月06日 10:30
檜の匂いが満ちる社務所で、俺は空中ディスプレイに浮かぶ祝詞の最終稿を睨んでいた。
生成AIが校正した文章は、てにをはの乱れもなく、古式ゆかしい言葉遣いが完璧に再現されている。完璧すぎて、どこか体温が低い。
『拓海。少し、ここの言の葉が硬いのではないか?』
耳内デバイスから、今は亡き祖父の声が響く。この神社の先代宮司だった男の、厳格だが温かみのある声だ。
「大丈夫ですよ、爺さん。どうせ誰も、細かいニュアンスまで気にしてませんから」
俺はそう呟きながら、いくつかの単語を自分の口にしっくりくるものに手動で置き換えていく。自己満足みたいなものだ。
ピロリロリン、と懐かしい16和音の着信音が鳴った。私用の折りたたみ型端末が開かれ、娘の小学校からの連絡網がホログラムで投影される。
『明日の図画工作の授業における持参物について』
これもまた、AIが校正したであろう丁寧すぎる一文から始まっていた。要点は「どんぐりを十個」だけなのに。
「さて、と」
俺は私用端末を閉じ、本業に戻る。七五三の執行に向けた『地域安定化祈祷』の差分断片を、管轄の第0x8C34A内閣ユニットへ提出する時間だ。
これも形式上の手続きに過ぎない。俺が入力した申請データに、党ドクトリンに基づく暗号アルゴリズム署名が付与され、承認される。それだけ。
申請ボタンを押すと、数秒で承認通知が返ってきた。いつもの流れだ。
『待て、拓海』
祖父の声が、いつもより少し鋭い。
『この署名のハッシュ値、末尾に妙な揺らぎがある』
「いつものことでしょう。もうアルゴリズムも末期なんだから」
ここ数十年、党のドクトリン署名には、原因不明の微細なエラーが頻発していた。半ば公然と解読されているシステムだ。誰も気にしない。
『いや、違う。これはただの劣化ではない。……祈祷の効果を減衰させるパラメータが、意図的に埋め込まれておる。0.03%ほどだが』
俺は思わず手を止めた。空中ディスプレイを指でなぞり、署名の詳細ログを展開する。
確かに、見慣れない数列が、本来あるべきではない場所に紛れ込んでいた。ごく僅かなノイズ。だが、祖父の言う通り、それは祈りの効果をほんの少しだけ削るためのコードに見えた。
なぜ、こんなことを?
誰が?
答えなど出るはずもない。党とはそういうものだ。誰の顔も見えないまま、世界を規定する巨大な数式。その数式が、今や静かに壊れ始めている。
ピロリロリン。またあの着メロだ。今度は氏子総代からだった。七五三の当日の役割分担についての、他愛ない確認電話だ。
「ええ、はい。承知しております。当日はよろしくお願いいたします」
当たり障りのない会話をしながら、俺の目は空中のログに釘付けになっていた。
この不整合を報告すれば、儀式は遅れるだろう。面倒な調査が入り、氏子たちにも迷惑がかかる。そもそも、0.03%の減衰なんて、誰が体感できるというんだ。
『神職として、どうする?』
祖父の静かな問いが、鼓膜を揺らす。
俺は、さっき見た学校の連絡網を思い出していた。
完璧に校正された、心のこもらない文章。AIが手を入れた、体温の低い祝詞。
何もかもが、少しずつ本来の意味からズレて、薄まっていく。今に始まったことじゃない。
俺は深く息を吸い、電話を切った。
そして、ログ表示ウィンドウの隅にある、「確認済・問題なし」のボタンに、ゆっくりと指を伸ばした。
「大丈夫ですよ、爺さん」
俺は、誰に言うでもなく呟いた。
「祈るのは、システムじゃない。俺たち人間ですから」
カチリ、と軽いクリック音が響く。
すべては承認され、記録され、連鎖していく。
俺は立ち上がり、真っ白な狩衣に袖を通した。窓の外では、秋の陽光が境内の落ち葉を金色に照らしている。世界は何も変わらない。俺の仕事も、何も変わらない。