土の匂い、欠けた署名

──平成0x29A年10月04日 06:00

俺の仕事は、第22農業ブロック第三圃場の苗床管理だ。今朝も六時前に起きて、温室棟の湿度チェックから始める。

「恒也、今日は近傍通信タグの更新日だぞ」

親父のエージェントが、俺の首筋のインプラントを通して囁く。享年56、トラクター事故。生前は頑固一徹の農家だった。

「ああ、わかってる」

苗床の脇に置いたガラケーを開く。平成エミュのせいか、この圃場のシステムは妙に古い。折りたたみ式の液晶に、近傍通信タグの更新通知が点滅している。俺は苗床一列ごとに埋め込まれたタグにケーブルを差し込み、ファームウェアを流し込んでいく。

「そういや、デジタルツインの同期も今日だったな」

親父が言う。圃場全体の生育状況をシミュレートするデジタルツインは、週に一度、実物とデータを照合する。俺はポケットから取り出したカセットテープ型の外部記録媒体を端末に挿し込んだ。磁気ヘッドが回り、データが吸い上げられていく。

「……あれ?」

端末が警告を吐いた。党ドクトリン署名の検証エラー。暗号キーのバージョンが0.02だけズレている。

「また来たか」

親父が呆れたように言う。最近、こういう不一致が増えている。党ドクトリンのアルゴリズムが崩れかけているせいだ。

俺は端末の裏蓋を開け、手動で旧バージョンのキーに切り替える。本来は違法だが、現場じゃ誰もがやっている。署名が通り、デジタルツインの同期が始まった。

「……恒也、お前、今、第0x4A29C内閣ユニットの総理大臣になったぞ」

「は?」

親父の声が少し緊張している。俺のインプラントに、閣議決定の通知が流れ込んできた。5分間だけ、俺が総理大臣。政策変更リクエストが一件、待機している。

内容は「第22農業ブロック圃場管理システムの暗号キー統一化」。つまり、俺が今やった手動切り替えを不要にする提案だ。

「承認しろ」

親父が言う。

「でも、党ドクトリンの署名が……」

「そんなもん、どうせ半分解読されてる。承認しろ。お前ら若いのが楽になる」

俺は迷った。でも、親父の声には生前と同じ、土を耕す者の確信があった。

俺は承認ボタンを押した。

5分が過ぎ、権限は消えた。でも、端末の隅に小さく「キー統一化・承認済」の文字が光っている。

温室の土の匂いが、少しだけ軽くなった気がした。