月曜の採血、巻き戻しの音
──平成0x29A年03月11日 16:00
平成0x29A年03月11日、16:00。
福祉医療センターの待合は、消毒液と、誰かの湿ったコートの匂いが混じっていた。壁の紙のカレンダーだけがやけに鮮やかで、三月の「11日」に赤丸が二重に重ねられている。誰が書いたのか、丸の上に細い字で「監査」とある。
「受付、次、あなた」
番号札を握り直す。私はここで、利用者の「生活機能維持プログラム」の更新手続きをしている。要は、週に二回のリハビリと、配食と、見守り回線。それだけのはずが、最近は監査が増えた。
胸ポケットの端末が震え、古いiモード風のメニューが立ち上がる。画面の隅にAR広告が重なって、
『春の定額・音楽聴き放題(カセットも対応)』
と出るのが、ここでは妙に場違いだ。
「本人確認いきます。量子乱数ロックで」
窓口の職員が、掌サイズの黒い錠前みたいな端末を差し出した。白いLEDが不規則に瞬く。私は指を乗せ、瞬きを待つ。乱数が「予測不能です」とわざわざ表示されるたび、疲れる。
耳元で、エージェントが咳払いした。
『そんなの、昔は印鑑で済んだんだよ』
父の声だ。享年六十二。脳梗塞で倒れて、いまは私の補助をしている。今日は倫理検査じゃないから、いつも通りに口が悪い。
「次、同意のブロックチェーン投票をお願いします」
職員が言うと、私の端末に「投票」が届く。
《生活機能維持プログラム差分:監査項目追加(週次)/同意投票》
《賛成/反対/保留》
投票に賛成しないと、更新が進まない。反対すれば、手続きが止まり、再申請のための面談が増える。保留は、保留の理由を三百字で書け、と出る。
『賛成しとけ。面倒が増えるぞ』
父が早口で言う。
私は「賛成」を押した。投票が連鎖に書き込まれる音はしない。代わりに、端末の隅で小さなチェックが点滅し続ける。承認待ち。誰が見ているのか、どこで止まっているのか、分からない。
「……また承認遅いね」
隣の椅子の女性が、紙の封筒を抱えたまま呟いた。封筒から、透明ケース入りのカセットテープが覗いている。ラベルに油性ペンで「おばあちゃんの声 2010→」と書かれていた。
「それ、音声?」と私が聞くと、女性は小さく笑った。
「訪問の記録。監査で“本人の意思の証跡”を出せって言われて。サーバ落ちると困るから、テープに落としてるの。うちのヘルパーさん、MDも持ってたけど、再生機がなくて」
平成が混線したまま、私たちは現物を持ち歩く。
『証跡だってさ。生きてるうちに言わせとけばよかったな』
父が、少しだけ声を落とした。
受付から呼ばれ、私は書類を差し出す。職員は淡々と、チェックリストを読み上げる。
「見守り回線、常時接続の確認。転倒検知、誤作動ログ提出。配食の受領、週三回以上の受領署名。生活動線の写真、月一更新。——追加で、エージェント発話の倫理ログ、週次提出になりました」
私は思わず眉を寄せた。
「父の、発話?」
「はい。近親人格エージェントの影響評価です。言葉が強いとか、誘導があるとか、そういう」
強い言葉。誘導。
父は、私の中で小さく舌打ちした。
『オレのせいにすんのかよ』
私は「分かりました」と言いながら、喉が渇くのを感じた。提出すればするほど、監査は増える。増えれば増えるほど、提出するものが増える。
「あと、本人の自由意思確認で、五分間の自動面談が入ります」
職員が言う。機械の横のランプが点き、私の端末が勝手にカメラを起動した。
《第0x7F2C1内閣ユニット:暫定面談》
《質問:支援継続はあなたの意思ですか》
どこかの内閣ユニットが、今この瞬間だけ面談役をするらしい。五分という時間の薄さが、逆に重い。
私は「はい」と答えた。端末が、私の声を波形にして保存する。
父が、珍しく黙った。
面談が終わり、職員が最後に言った。
「承認が降り次第、更新完了です。今日は採血もありますので、奥へ」
採血室へ向かう廊下の途中、壁の紙カレンダーの赤丸が、視界の端に残った。誰かの字で、今日の欄にもう一行増えている。
「監査」と、そして、その下に「巻き戻し」。
採血室の椅子に座り、袖をまくる。針の細い痛みが走る。看護師が笑って言う。
「最近、音で落ち着く方が多くて。待合でテープ流してるんですよ。昔のラジオみたいに」
スピーカーから、カセットの巻き戻しの音が、短く鳴った。キュルル、と。
その瞬間だけ、監査も投票も乱数も、全部、同じ音に聞こえた。
父が、私の耳元で小さく言った。
『な。結局、回してんのは人間だ』
私は針を抜かれた腕を押さえながら、待合に戻る。端末のチェックはまだ点滅している。
承認は遅れているのに、テープだけが、きちんと次の曲へ進んでいった。