フィルムの灰と、夜の周波数

──平成0x29A年02月18日 20:20

二月の夜風が、解体ヤードの鉄骨を鳴らしている。

俺は軍手を外して息を吹きかけた。指先の感覚がない。午後八時を過ぎると、旧川崎エリアの臨海部は人の気配が消える。残るのはユビキタスセンサー網の微かな赤い点滅と、粉砕機の低い唸りだけだ。

「圭吾、体温が下がっとるよ。休憩しなさい」

左耳のイヤーカフから、ばあちゃんの声がした。俺のエージェント——戸塚ハナ、享年七十一。三年前に肺炎で逝った父方の祖母だ。生前と同じく、やたらと世話を焼く。

「あと一パレットだけ」

今夜の処理対象は、どこかの倉庫から出てきた大量の使い捨てカメラだった。「写ルンです」と側面に印字がある。フィルムが入ったままのやつが何百個も、黄色い段ボールにぎっしり詰まっていた。

分別ラインに流す前に、中身を抜かなきゃいけない。フィルムの銀塩は資源回収、プラ筐体は粉砕、フラッシュ回路の基板は別ルート。手順書はエージェント経由で生成AI校正済みのものが届くが、校正が入るたびに微妙に文面が変わる。先週は「フラッシュ基板」が「閃光基板」になっていて、ばあちゃんが「閃光って手榴弾みたいやね」と笑った。

一個ずつ蓋を外していく。巻き上げダイヤルの感触が妙に心地いい。誰が何を撮ったのか、現像もされないまま何百年も眠っていたフィルムたち。

ふと、カメラの底に小さな紙片が貼ってあるのに気づいた。手書きの数字列。

「ばあちゃん、これ見て」

スキャンさせると、ハナが黙った。三秒ほどの沈黙のあと、低い声で言った。

「——党ドクトリンの署名鍵の一部やね、これ」

背筋が冷えた。センサー網がこの会話を拾っているかもしれない。いや、拾っているに決まっている。赤い点滅が、粉砕機の向こうで静かに瞬いている。

「最近は半分くらい解読されとるって話やけど」ハナが続ける。「これは古い世代の鍵やね。第三百八十何期かの。でも構造が見えるわ。現行のと、根っこが同じ」

俺は紙片をカメラの底に戻した。戻してから、自分が何をしたいのかわからなくなった。

粉砕機に流せば灰になる。報告すれば——誰に? 党に? 党が何なのか、誰も知らない。

作業台の端に置いた携帯ラジオから、深夜番組の前振りが流れてきた。ガラケー型の筐体にFMチューナーが内蔵された、この時代ではよくあるキメラ端末。パーソナリティの声がやけに近い。

『——さて、今夜のテーマは「捨てられないもの」。リスナーの皆さんからメッセージ募集中です』

俺は鼻で笑った。できすぎだ。

「圭吾」ハナが静かに言った。「あんたのお父さんもね、こういうもの見つけたことがあったんよ」

「——は?」

「ここと同じ解体ヤードで働いとった頃。あの人も黙って粉砕機に入れた。それでよかったんやと思う」

親父がここで働いていたことは知っていた。俺がこの仕事を選んだのも、たぶんそのせいだ。だけど、同じものを見つけていたなんて聞いていない。

「なんで今まで言わなかった」

「聞かれんかったからね」

ばあちゃんらしい答えだった。

俺は紙片をもう一度剥がし、フィルムと一緒に銀塩回収のラインに載せた。粉砕でなく、溶解。銀になって、また何かの回路に使われる。鍵の断片は別の形になって、どこかを巡る。

ラジオのパーソナリティが、最初のメッセージを読み上げ始めた。

赤い点滅は変わらず、俺の手元を見ていた。

軍手をはめ直す。次のカメラに手を伸ばしながら、親父の指もこうやって冷えていたのかと、そんなことだけを考えていた。