排気ガスは星の粉、ロード画面は永遠

──平成0x29A年11月01日 20:00

フロントガラスにキラキラと光る粉が降り積もっていた。雪ではない。上空を徘徊する監査ドローンが撒き散らす「センサーダスト」だ。この極微小なナノマシン群は、車両の塗装面やナンバープレートに付着し、不正改造や未納付の環境税がないかを執拗にスキャンし続けている。

「ちっ、また撒いてきやがった。洗車したばっかなのによ」

インカムの向こうで、祖父の鉄男が毒づいた。彼は私の個人タクシー業務を補佐するナビゲーター・エージェントだ。生前も個人タクシーの運転手だった彼は、享年七十二で逝ってから十年、こうして私の脳内と車載システムに居座っている。

「仕方ないだろじいちゃん。第402ヘゲモニー期は『クリーン&セーフティ』がスローガンなんだから」
「けっ、何がクリーンだ。この粉自体が環境汚染だろうが」

私はワイパーを動かした。平成0x29A年11月01日、20時00分。首都高湾岸線の旧第9セクターは、慢性的な渋滞で死んだ川のように動かない。

「運転手さん、これ、まだ動きませんか?」

後部座席の客が、不安げに声をかけてきた。くたびれたスーツを着た、私と同年代くらいの男性だ。
「申し訳ありません。監査局の検問パケットが詰まっているようでして。もう少しかかりそうです」

客はため息をつき、手元のコントローラーをカチャカチャといじった。私のタクシーは「レトロ・ラグジュアリー」仕様で、後部座席には完動品の『PS2』を設置してある。もちろんエミュレーターではない、貴重な実機だ。客はその黒い筐体にディスクを入れ、ロード画面のまま止まっているモニターを虚ろに見つめていた。

「……読み込みませんね」
「ピックアップレンズの機嫌が悪いんです。叩けば直る世代の機械ですが、叩くと監査に引っかかるので」

その時、ダッシュボードの警告灯が赤く点滅した。

『警告。カーボンクレジット台帳の署名不整合を検知。即時停止し、上位ユニットの承認を待機してください』

無機質な合成音声と共に、エンジン(正確にはパワーユニット)が強制的にアイドリングモードへ落ちる。センサーダストが車体の微細な傷を「クレジット未申告の劣化」と誤認したらしい。またこれだ。過剰な監査アルゴリズムが、現場のノイズを許容できずにエラーを吐く。

「おいジン、こいつはマズいぞ。正規の再審査を待ってたら朝になっちまう」
鉄男の声が焦りを帯びる。「裏ワザを使え。手書きのアレだ」

私はバックミラー越しに客を見た。客は動かないロード画面を見つめたまま、疲れ切って目を閉じかけている。このままここに閉じ込められるのは御免だ。

「お客さん、すみません。ちょっとご協力いただけますか」
「え?」
「この渋滞を抜けるために、形式上の領収書を切らせてください」

私はダッシュボードから、複写式の領収書冊子を取り出した。カーボン紙の懐かしい匂いが鼻をくすぐる。本来は精算時に使うものだが、システムのバグに近い仕様上の抜け穴がある。手書きの筆跡データを「生体署名」としてシステムに流し込むと、一時的に信頼度スコアが跳ね上がり、監査をパスできるのだ。

「まだお金払ってませんけど……」
「構いません。監査を通すための儀式みたいなものですから。日付は今日、但し書きは『御車代』として……」

ボールペンを走らせる。カーボン紙を通して下の紙に文字が転写される感触。デジタル署名にはない、物理的な圧力がそこにある。

「へえ……手書きなんて、久しぶりに見ました」
客が身を乗り出して、私の手元を覗き込んだ。「親父が昔、こういうのを束にして持って帰ってきてたな。経費で落ちるとか言って」
「ええ、昔の良い時代です」

私は書き上げた領収書を車内カメラにかざした。OCRが筆跡を読み取り、ブロックチェーンの末端にねじ込む。

『署名確認。特例措置として通行を許可します』

警告灯が緑に変わった。同時に、後部座席から「ブゥーン」という低い起動音が響いた。PS2がようやくディスクを認識し、ゲームが始まったのだ。

「あ、動いた」
客の声が少しだけ弾んだ。

車がゆっくりと動き出す。センサーダストは相変わらず降り続いているが、街灯に照らされたその粉は、見ようによっては星屑のようにも見えた。後部座席からは、懐かしい電子音と、客の小さな独り言が聞こえてくる。

「悪くねえな」と鉄男が呟く。「手間のかかる機械ほど、動き出した時は嬉しいもんだ」

私はアクセルを少しだけ踏み込んだ。ロード画面の長すぎる暗転を抜けて、私たちは夜の底を滑り始めた。