不良セクタの秋空、コピー機の温もり

──平成0x29A年10月17日 11:50

 第3緑地ブロックのベンチで、私は角ばったプラスチックの板を太陽にかざした。フロッピーディスク。三百年近く前の記録媒体だ。シャッターの金属部分が錆びついている。
「蓮、その向きじゃ読み込めないってば。磁気面が劣化するよ」
 脳内の蝸牛インプラントから、姉さんの声が響く。須藤麻里。享年二十八。五年前に過労で死んだ彼女は、生前と変わらない小言の多いエージェントとして私の視覚野に居座っている。
「わかってるよ。ただ見てただけだ」
 私はカバンから、USB-C変換アダプタを噛ませた骨董品のフロッピードライブを取り出した。カシュ、という物理的な挿入音が、公園の静寂に場違いに響く。時刻は十一時五十分。昼休みを告げるチャイムまであと十分。
 ドライブが唸りを上げ、私の視界にARウィンドウが展開された瞬間、視界が激しく明滅した。

『警告:個人認証トークンに致命的な不整合を検知。平成0x00A年互換のドライバと競合しています』

 視界が砂嵐に覆われ、ベンチの座面から「課金認証エラー」のブザーが鳴り響いた。尻の下でロック機構が作動し、座り続けるなら罰金を払えと警告してくる。
「あーあ、やった。あんたのID、今クラッシュしたわよ」姉さんが呆れたように言う。「そのフロッピー、古い行政区画の暗号化キーが生きてる。接触感染したね」
 私は慌ててドライブを引っこ抜いたが、手遅れだった。視界の右上に表示されていた私の市民IDが『NULL』と点滅している。これでは公園の出口ゲートも通れないし、自宅のスマートドアも開かない。私は社会的に透明人間になってしまった。

「どうするんだよ、これ」
「再同期しなきゃ。ほら、あそこのコンビニ」
 姉さんが指し示す先、公園の敷地内にあるコンビニエンスストアが見えた。私はブザーを鳴らし続けるベンチから飛び退き、駆け出した。
 歩道では、ランチボックスを満載した物流用群ロボットの隊列が、整然と音もなく滑っていく。彼らは完璧なアルゴリズムで統率されているのに、人間である私だけが、古い磁気データ一つで路頭に迷っている。

 コンビニに入ると、マルチコピー機の前に立った。タッチパネルを操作しようとするが、指紋認証すら弾かれる。
「『行政サービス』のタブを長押しして。裏コマンド」
 姉さんの指示通りにする。画面が切り替わり、『緊急再同期申請(様式第4号)』が表示された。
「紙で出力して、署名して、スキャン。この国のOSは、結局最後は紙を信じるようにできてるの」
 小銭入れから硬貨を探り出し、投入口に入れる。チャリン、という音がやけに生々しい。ウィーン、ガシャン。排出口に吐き出されたA4のコピー用紙は、ほんのりと温かかった。
 ボールペンで名前を書き、拇印を押す。スキャナが光を走らせると、視界の砂嵐が晴れ、IDが『須藤 蓮』に戻った。

『同期完了。ようこそ、市民』

 安堵の息をつく。手元には、まだ温かい申請書の控えと、読み込めなかったフロッピーが残った。
「ねえ、蓮」姉さんの声が、少しノイズ混じりに聞こえた。「そのディスク、もう捨てなよ。私、生前に何のデータをバックアップしたか忘れたけど、どうせろくなもんじゃないし」
「……そうだな」
 私は嘘をついた。一瞬だけ開いたディレクトリには『蓮へ_誕生日おめでとう』というフォルダが見えていた。だが、それを開くためのドライバは、もう私のIDを傷つける毒でしかない。
 私はフロッピーをポケットに仕舞い、コピー機の温もりだけを手に残して店を出た。スマートドアの開錠通知が、冷たい秋風の中で小さく鳴った。