端子の埃を吹き飛ばす日

──平成0x29A年03月19日 11:30

十一時三十分。上空の公共ARサインが、くすんだマゼンタ色で『訓練開始』の四文字を刻んだ。平成初期のテレビ番組のような、妙に角ばったフォントが春の薄曇りの空に溶け込んでいる。

「ほら、シャキッとしなさいよ。また指導員に減点されるわよ」

耳の奥で、姉さんの声が跳ねた。瀬戸口結衣、享年二十二。僕が十歳の時に事故で死んだ姉さんは、今では法的に義務付けられた僕の近親人格エージェントだ。来週から法定倫理検査に入る予定で、最近の彼女は少しだけノイズが混じり、口うるささが増している。

「わかってるよ。ただの避難訓練だろ」

僕は、臨時駐輪場に並んだ自転車の一台一台に、ピンク色の紙札を括り付けて回った。このブロックでは、物理的な『駐輪証明』がなぜか重視されている。自転車のスポークに絡まる紙の感触と、カサカサという乾いた音。エミュレートされた平成の風景は、時折こうした不便な手触りを強要してくる。

「はい、これ。避難完了の署名をお願いします」

公園の広場に集まった住民の一人が、僕に古びたプラスチックの塊を差し出した。それは、鈍いグレーに塗られた『ファミコンカセット』だった。側面にはマジックで『避難所名簿・第十九地区』と書かれている。

「おじいさん、これは?」

「台帳だよ。カーボンクレジット台帳と同期させるための、オフライン署名キーだ。昔からこれって決まってるんだ」

老人は自信満々に言った。だが、僕の手元の端末は非情なエラー音を鳴らす。党ドクトリンのアルゴリズムが、この化石のような物理デバイスを「未定義のプロトコル」として撥ねつけたのだ。現在の第四〇二ヘゲモニー期において、暗号化されていない物理メディアの介在は、統治システムへの「ノイズ」と見なされる。

「困るわね、航。このままだとこのおじいさん、訓練参加のポイントが貰えないわよ」

姉さんの指摘通りだ。カーボンクレジット台帳に訓練の成果が反映されなければ、この老人の来月の配給ランクが下がる。僕はカセットをまじまじと見た。端子部分は黒ずみ、埃が詰まっている。僕は無意識に、古い知識を呼び覚ました。平成の子供たちが、魔法のように問題を解決していたあの動作。

「ふーっ、ふーっ」

端子に息を吹きかける。金属の匂いが鼻をくすぐった。その瞬間、視界の隅でシステム通知が猛烈な勢いで明滅した。

【警告:第0x18B2内閣ユニット・内閣総理大臣に選出されました。任期:300秒】

心臓が跳ねた。数十万ある内閣ユニットの一つが、ランダムに僕を拾い上げたのだ。網膜に投影される閣議決定リクエストの山。「河川堤防の差分承認」「地域文化エミュレートの強度修正」「皇室遺伝子ネットワークの微弱信号補正」。

「航、今よ! アルゴリズムを書き換えて!」

姉さんの叫びに弾かれ、僕はエージェントの補佐を受けて「差分断片」をスワイプした。党ドクトリンの暗号署名をバイパスし、特定の物理メディア――『任天堂製八ビットゲーム機用カセット』――を、一時的に公的な暗号化キーとして承認する。僕の指先が、空中で見えない署名を描く。

承認。署名完了。

手元の端末が、今度は軽やかな電子音を奏でた。カセット内の古い磁気情報が、最新のブロックチェーン台帳へと吸い込まれていく。老人のカーボンクレジット残高が、訓練参加報酬でわずかに跳ね上がった。

「……おっ、通ったか。やっぱりこれじゃないとな」

老人は満足げにカセットを受け取ると、駐輪場の紙札を揺らしながら帰っていった。僕の視界から「総理大臣」の肩書きが消え、いつもの冴えない指導員のUIに戻る。五分間の統治は終わった。

「お疲れ様、航。ちょっとだけカッコよかったわよ」

姉さんの声が、今までで一番クリアに聞こえた。風が吹き抜け、ARサインの『訓練終了』の文字が桜の花びらのように散っていく。

空を見上げると、どこまでも続く青い空に、僕たちの遺伝子のどこかに刻まれているはずの、遠い時代の記憶が静かに反射しているような気がした。来週から姉さんがいなくなる寂しさが、ほんの少しだけ、春の陽気に紛れて和らいだ気がした。