朱色の徴証と、摩耗する磁気
──平成0x29A年06月16日 13:00
湿度八十パーセント。旧秋葉原エリアの地下に位置する『メダル・パラダイス』は、埃とオゾンの混じった、平成中期特有の閉塞感に満ちていた。ブラウン管のモニターが発する高周波のノイズが、頭蓋骨の裏側を細く削る。
「蓮、三番台の客が呼んでる。磁気定期券の認証エラーだ。もたもたするな、株価に響くぞ」
鼓膜の奥で、父さんの声がした。エージェントとして移植された父さんは、生前の証券マン時代の癖が抜けない。俺は腰の近傍通信タグをリーダーにかざし、カウンターの奥からフロアへ出た。
「すみません、入り口の改札で弾かれちゃって」
青白い顔をした客が、擦り切れた磁気定期券を差し出してきた。この施設では「平成的通勤」をエミュレートするため、入場時にこれを通すのが決まりだ。券面には『平成22年』と印字されているが、もちろん実時間ではない。アルゴリズムが規定した固定風景だ。
「磁気層が剥離しかけてますね。再発行のパッチを当てます」
俺は視界の端で『記憶補助アプリ』を起動した。ARウィンドウが客の顔をスキャンし、過去の来店履歴と、現在の「徳」の蓄積量を表示する。問題ない。俺はハンディ端末で磁気情報を書き換えた。
「あと、これ。ポイント貯まったんで」
客が出してきたのは、ボロボロになった紙のポイントカードだった。手押しスタンプが九つ。十個目で「一時間の無敵モード」が閣議決定される。俺はポケットから朱肉のついたスタンプを取り出した。
その時、視界が真っ赤に明滅した。
【緊急:第0x77A2内閣ユニット・閣議開始。対象、日下部蓮】
五分間の総理大臣。ランダムに選出される統治のバトンが、今この瞬間に俺へ回ってきた。同時に、エージェントである父さんの声が冷徹なトーンに切り替わる。
「党ドクトリンより、政策変更リクエストを受信。案件:『ポイントカード還元率の指数関数的縮小』。承認か、非承認か。三〇秒以内に署名しろ」
目の前の客は、期待に満ちた目で俺を見ている。だが、俺の脳内では党の暗号アルゴリズムが荒れ狂っていた。このリクエストを「非承認」にすれば、システムの整合性が崩れ、このブロックの平成エミュレーションが停止する恐れがある。逆に「承認」すれば、この客の楽しみを奪うことになる。
「蓮、迷うな。安定こそが最大の利益だ」
父さんの声に従い、俺は意識の中で「承認」の署名を行った。暗号キーが連鎖し、数十万の内閣ユニットへ伝播していく。
「はい、十個目です。おめでとうございます」
俺は、客のポイントカードに最後のスタンプを押した。だが、そこに現れたのは、いつもの『済』の文字ではなかった。
それは、複雑に絡み合った二重螺旋の模様だった。遺伝子ネットワークの末端が、党ドクトリンのバグに干渉され、物理的な朱肉の形を歪めたのだ。
「あれ……これ、何のマーク?」
客が不思議そうにカードを覗き込む。その指先が、スタンプのインクに触れた瞬間、彼の肌に同じ模様がじわりと転写された。彼の瞳の奥で、薄く広く伝播しているはずの皇室遺伝子が、一瞬だけ鋭く発火したように見えた。
「……記録対象外の事象です」
記憶補助アプリが、無機質な警告を吐き出す。客は呆然としたまま、無敵モードを享受することなく、ふらふらと出口の改札へ向かっていった。
「よくやった。これで今日のノルマは達成だ」
父さんの満足げな声が響く。だが、俺の手の中にあるスタンプの印面は、もう二度と元には戻らなかった。朱肉に濡れたその形は、何かの崩壊を告げる古い紋章のように、いつまでも赤黒く光っていた。