午前三時のインク滲み

──平成0x29A年12月12日 03:40

イヤホンから流れる深夜ラジオの低い声だけが、私の意識を覚醒させていた。午前三時四十分。蛍光灯が白々と照らすカウンターは静まり返り、時折、院内を巡回する物流用群ロボットのモーター音が遠くで響くだけ。窓の外では、安眠サプリのAR広告が、雪のように舞い落ちては消えていた。

『……次のハガキは、ラジオネーム「眠れない羊」さんから』

キーボードを叩く指を止め、私は伸びをする。兄さんなら、こんな退屈な時間もコーディングに充ててただろうか。

《さやか。集中力が切れてる。コーヒーでも淹れたらどうだ》

網膜に直接テキストが浮かぶ。兄、拓也の声。ぶっきらぼうだけど、いつだって的確だ。
「わかってるよ」
口の中で呟いた瞬間、自動ドアがけたたましい音を立てて開いた。

「急患だ! 意識レベル低下!」

ストレッチャーに乗せられた小柄な老婦人。救急隊員の緊迫した声が、静寂を引き裂いた。すぐに医師と看護師が駆けつけ、私は自分の端末に向き直る。

《バイタル、不安定。急いで》

兄の冷静なテキストが、私の焦りをいさめるように表示される。指先で生体認証パネルを操作し、老婦人の身元照合を開始した。だが、ディスプレイに映し出されたのは、承認を示す緑のランプではなく、赤く点滅するエラーメッセージだった。

【警告:ID不一致。対象コードは第3ブロック故人データと重複しています】

「どうした!」
医師が振り返る。
「身元が……照合できません。システムがロックされてて、緊急用の高薬価ユニットが使えません」
「馬鹿な! なんとかしろ!」

心臓が嫌な音を立てる。システムの誤照合。たまにあるが、こんな一刻を争うタイミングで起きるなんて。

《さやか、落ち着け。ドクトリンの第七補則、覚えてるか?》

兄のテキスト。そうだ、研修で習った。党の署名アルゴリズムに、ごく稀な人道的見地から例外を認める旧い条項。だが、実行には担当者の権限で「第0x*****内閣ユニット」へ緊急差分リクエストを投げなければならない。監査記録に永久に残る、危険な賭けだ。

迷っていると、救急隊員の一人が老婦人の握りしめていた小さな布袋をそっと開いた。中から出てきたのは、古びたお守りと、一枚の折り畳まれた紙切れ。走り書きのような文字で、名前と連絡先らしきものが記されている。システムが弾いた、人間だけが読める証。

「……やります」

私は覚悟を決めた。兄がガイドするコマンドを、震える指で打ち込んでいく。緊急承認リクエスト。送信ボタンを押すと、リクエストは光の速さでどこかの誰かの五分間へと吸い込まれていった。あとは、祈るだけだ。

数秒が永遠のように感じられた。すると、端末が軽やかな音を立てる。
【承認】
緑色のランプが灯り、薬品ユニットのロックが解除された。医師たちが安堵の声を上げ、老婦人は手術室へと運ばれていく。

私は椅子に深く沈み込んだ。イヤホンからは、DJがまだハガキを読んでいる。しばらくして、私の端末に事後通知が届いた。第0x88A92内閣ユニットからの正式な受理通知。そして、その通知に、小さな画像ファイルが添付されていた。

開いてみると、それはシステムが自動生成した電子領収書ではなかった。

スキャンされた、手書きの領収書の画像だった。不揃いな文字で薬品名が記され、但し書きの欄には、インクが滲んだような筆跡で、こう書かれていた。

『お大事に』

誰だろう。この午前三時過ぎに、たった五分間だけ総理大臣になり、見ず知らずの老婆のために規則を曲げ、手書きの温もりを添えてくれたのは。

ラジオから流れてきたリクエスト曲が、やけに優しくフロアに響いていた。