水道メーターの横で笑う

──平成0x29A年04月30日 17:10

平成0x29A年04月30日、17:10。団地の外廊下は夕飯前の匂いで、カレーと柔軟剤と、どこかの部屋のVHSのカビ臭さが混ざっている。

水が出ない。
台所の蛇口は乾いた咳みたいな音をして、空気だけ吐いた。

「また“止め方”が変わったのよ」
耳の奥で、母の声がする。私のエージェント——母・里美。七年前に心不全で死んだのに、こういう時だけ生活感が強い。

私は自治ブロックから貸与された端末を開く。iモードみたいな縦長メニューに、AR広告が被さってくる。
『節水は美徳。今なら“平成おいしい水”サブスク初月0円!』
広告の女の子が水滴をまとってウインクする。水が出ないのに。

階段下の受水槽室へ向かうと、踊り場にプリクラ機が置かれている。団地の子ども会が「思い出コーナー」とか言って勝手に搬入したやつだ。画面には“春の盛れ補正”のフレーム、足元には電源タップ。なぜここに。

受水槽室の扉には、位置情報ビーコンがガムテで貼られていた。点滅が弱い。ビーコンが生きてないと、誰がどこで作業したかのログが飛ばない。飛ばないと、誰も責任を取らない。

「ビーコン、電池切れ寸前ね」母が言う。
「今日は水のほうが先」私は言い返す。

端末に“水圧低下アラート”が並ぶ。復旧手順は自動で提案されるけど、最後の承認が通らない。
画面に小さく赤字。
【党ドクトリン署名:不一致】

不一致、って。末期の癖に偉そうだ。

ドアの隙間から、誰かが紙を差し込んできた。手書きのメモ。
『本日、受水槽は“奇数棟優先”。偶数棟は19:00以降。従わないと差分申請は全部弾く。自治会』

「非公式ルールが来たわね」母が乾いた笑いを混ぜる。

団地は1号棟から10号棟まである。私は8号棟。偶数だ。

私は受水槽室の中に入って、メーターを覗く。機械は古い。針の横にQRみたいな刻印があるのに、読み取ると“この形式はサポート外です”と出る。平成エミュのくせに、古さの面倒は見ない。

「自治会が止めてるの?」
「止めてるのは、止められる仕組みよ」母が言う。「公式の差分より、近所の空気のほうが強い。平成ってそうだった」

廊下の端から、子どもが走ってきた。プリクラ機のところで止まり、画面を叩いている。
「おばちゃん、これ動かない! 撮りたいのに!」

「水も出ないよ」私は言った。

子どもが唇を尖らせ、私の端末のAR広告を指さす。
「“おいしい水”って書いてある!」

私は笑いそうになって、喉の奥で止めた。

端末が震える。通知。
【内閣ユニット第0x3F91A:臨時レビュー要請】
【あなたは5分間、当該ユニットの内閣総理大臣です】

「来たわね」母が言う。うれしそうでも、怖そうでもない。いつもの“手続き”の顔。

画面には差分断片が一つだけ。
『受水槽配水優先順位を“自治会メモ”に追従させる』
賛成・反対のボタン、その下に、党ドクトリンの署名欄。薄い灰色で“自動補完中”。

「反対でしょ」母が言う。「公式にする必要ないわ」

私は一度だけ、踊り場のプリクラ機を見た。電源タップのランプが、ビーコンの点滅と同じ弱さで脈打っている。

この団地は、公式が壊れても、非公式で回る。
でも回るなら、回ると書かれてしまう。

私は“反対”を押した。
ドクトリン署名は一瞬で通った。解読されかけのアルゴリズムが、なぜか今だけ素直だった。

「えらい」母が小さく言う。

その瞬間、端末に別の通知が重なる。
【自治会差分申請:申請者位置情報不一致(ビーコン弱)につき保留】

私はビーコンを見た。点滅がさらに弱く、今にも消えそうだ。

「……つまり」私は言う。

母が先に言った。
「自治会の“紙”が一番強いのに、紙を書いた人がどこにいたか証明できないのよ」

廊下の向こうで、誰かがVHSデッキの巻き戻しを始めた。ギュイーンという、時代が戻る音。

そして、台所の蛇口から、遅れて水が出た。
細く、けれど確かに。

私は笑ってしまった。
「結局、ドクトリンより乾電池か」

「平成らしいオチね」母が言う。

私の5分は終わり、端末はAR広告に戻った。
『節水は美徳。あなたの節水履歴、ランキング化します』
水が戻ったばかりの台所で、私はその広告を、少しだけ憎めなかった。