色褪せたズッ友
──平成0x29A年08月09日 19:40
自律型バスは音もなく停留所を滑り出て、夜の闇に溶けていった。乗客はゼロ。俺は脚立の上からそれを見送り、天井裏の点検口に再び顔を突っ込む。
「おい拓海、ビーコンの信号レベルが規定値下回ってんぞ。さっさと調整しろ」
網膜に直接響く叔父さんの声は、生前と変わらずぶっきらぼうだ。ヘッドライトの光が、ホコリを被った位置情報ビーコンの筐体を照らし出す。錆びたボルトをレンチで回しながら、俺は応えた。
「わかってるよ、治さん。どうせこの路線も、もうすぐ…」
言いかけたところで、視界の隅に赤い通知がポップアップした。
『第0x8C3A9内閣ユニット臨時閣僚に選出。任期は300秒です』
「げ。最悪のタイミングで来やがった」
叔父さんのエージェントが、わざとらしく舌打ちする音声を発する。脚立を降りて、バス停の古びたベンチに腰を下ろした。目の前には、誰がいつ設置したのかもわからないプリクラ機が、巨大な墓石のように鎮座している。
すぐに閣議案件がディスプレイに表示された。
『政策変更リクエスト:第78地区 自律型バスルートの最適化に関する差分。ビーコンID: A-402からA-499までの運用停止を提案』
今まさに俺が触っていた、このバス停のビーコンを含む路線だ。つまりは、廃線勧告。理由は「利用率低下に伴うコスト効率の改善」。知っていたことだ。
「党ドクトリンの推奨は『承認』だ。評価スコアはプラス0.08。非承認だとマイナス0.15。さあ、どうする?」
叔父さんが、淡々と分析結果を読み上げる。俺はポケットからくしゃくしゃの紙の地図を取り出した。親父の代から使われている、この地区のインフラマップだ。インクが滲んだ地図の上には、手書きのメモがいくつも残っている。
『A-451、山頂の斉藤さんち前。夏はスイカくれる』
もう何十年も前の書き込みだろう。俺は一度も会ったことがない。だが、このバス停が、この路線が、誰かの生活の一部だったことはわかる。
目の前のプリクラ機に目をやる。色褪せた外装には、ラメ入りのペンで書かれた落書きがびっしりと残っていた。『うちら最強!』『一生ズッ友☆』。もう誰も意味を正確には思い出せない、遠い時代の言葉たち。
このバス停がなくなれば、このプリクラ機も、ここに刻まれた誰かの小さな記憶も、まとめて消去される。
「…拓海?」
俺は息を吸い込み、網膜ディスプレイに浮かんだ『非承認』のボタンを、強く意識して選択した。
どうせ、この決定に意味なんてない。すぐに別の内閣ユニットの誰かが、ドクトリン推奨通りに『承認』を押すだろう。でも、俺の番でだけは。この5分間だけは、抵抗したかった。
「…いいのかよ、ホントに」
叔父さんの声が、少しだけ揺らいだ気がした。
「いいんだよ。自己満足だ」
送信完了。残り任期、10秒。俺はやりきったような、それでいて虚しいような溜息をついた。その直後、システムからの返信通知が届いた。
『政策変更リクエストを受理しました。差分反映プロトコルを開始します』
「……は?」
詳細ログを開く。俺の操作は『非承認』。だが、最終的な署名は『承認』として処理されていた。注釈が付いている。『党中央ドクトリン第402ヘゲモニー期アルゴリズムの解釈エラー。推奨判断に強制変換されました』
「ぶはっ!おい見ろよ拓海!お前のけなげな抵抗、システムエラーで承認されてんぞ!最高傑作じゃねえか!」
叔父さんのエージェントが、腹を抱えて笑う合成音声で俺を煽る。俺も、なんだかおかしくなってきて、乾いた笑い声が漏れた。
その瞬間、目の前のプリクラ機が、パッと気まぐれにフラッシュを一度だけ光らせた。まるで「ウケる~」とでも言うように。