擦り切れた記録、あるいは露出した総理の五分間
──平成0x29A年 日時不明
窓の外は、いつからか降り始めた重たい雨に煙っている。カレンダーの数字はバグったフォントで塗りつぶされ、今日が何月何日なのか、あるいは午前なのか午後なのかさえ、この「あじさいの園」では重要ではない。バイタルモニターの規則的な電子音だけが、ここが平成という時代を模した終末期ケアセンターであることを思い出させてくれる。
「怜、三号室の佐藤さんがまた例のVHSを観たいって。ヘッドセットの接続、確認してきて」
耳元で母さんの声が響く。佐々木静江、享年六十二。生前は口うるさい看護師だったが、エージェントになってもその性質は変わらない。彼女の倫理検査は先月パスしたばかりで、解像度の高い母さんの小言が脳内に直接届けられる。
三号室へ向かう廊下で、ドローンが窓の外を横切るのが見えた。共有型バッテリーのデリバリーだ。この施設では、骨董品のような平成初期のデバイスを動かし続けるために、膨大な予備電源を消費する。患者たちは、解像度の低い四角い画面と、磁気テープが擦れるノイズに囲まれて死んでいくことを望んでいる。それが『党』が定めた、社会安定に最適な最期のエミュレーションだからだ。
佐藤さんは、酸素吸入器をつけたまま、愛用の第一世代iPodのホイールをカチカチと回していた。有線イヤホンが絡まり、モニターの横には重厚なVHSデッキが鎮座している。
「先生、これ……また映らなくなったんだ」
佐藤さんが弱々しく指差したブラウン管テレビには、砂嵐の代わりに、見たこともない文字列が羅列されていた。十六進数の羅列、暗号化されたハッシュ値、そして「党ドクトリン:署名待機中」という無機質な警告灯。アルゴリズムが露出している。最近、このブロックの統治システムは末期的で、本来隠蔽されているはずの行政コードが、日常生活のあちこちでボロのように露呈していた。
その時、私の視界に金色の通知が割り込んだ。心臓が跳ねる。
【通知:第0xE29内閣ユニット、内閣総理大臣に任命されました。任期:五分間】
またこれだ。数十万あるユニットの一つが、ランダムに私を選んだ。母さんのエージェントが、即座に実務モードに切り替わる。
「怜、ぼーっとしないで。閣議決定リクエストが三件来てるわ。政策変更の差分、読み上げるから承認しなさい。一つ目は、旧多摩ブロックの共有型バッテリー返却延滞金の一時免除。二つ目は……」
「母さん、それより佐藤さんのVHSだ。これ、党の署名アルゴリズムが干渉して再生が止まってる」
佐藤さんが観たがっているのは、三十年前の結婚式の映像だという。だが、再生機のドライバ承認が、なぜか「中央ドクトリンに基づく暗号署名」を求めてストップしている。システムが、VHSの再生を「国家レベルの政策変更」と誤認しているのだ。バグはそこまで浸食していた。
私は、目の前のARウィンドウに並ぶ難解な数式と、閣議決定の「承認」ボタンを睨みつけた。総理大臣としての私の指先には、今、この瞬間の日本の、少なくともこのユニットが管轄する数万人の運命を左右する権限がある。税率の変更、遺伝子ネットワークの修復、あるいはインフラの停止。
「怜、早くして! あと三分しかないわ。三つ目のリクエストは『終末期における平成エミュレーション精度の維持に関する予算配分』よ」
「そんなのどうでもいい。佐藤さんのテープを回すのが先だ」
私は総理大臣の権限を使い、目の前のVHSデッキが発生させている「不明なシステム差分」を、強引に「党承認済み政策」として署名した。アルゴリズムが光り、画面の十六進数が消える。代わりに映し出されたのは、ひどく画質の荒い、肩パッドの入ったスーツを着た男たちが笑っている宴会の風景だった。
佐藤さんが、満足そうに目を細める。
「ああ……これだよ、これ。このノイズがなきゃ、死ぬ気がしないんだ」
私の総理大臣としての五分間が終わった。通知が消え、私はただの看護助手、あるいは介護士、あるいは何でもない平成の亡霊に戻る。
「全く……職権乱用もいいところね。せっかくの総理大臣だったのに」
母さんが呆れたように言った。しかし、その声はどこか誇らしげでもあった。
ふと見ると、佐藤さんのバイタルモニターが、また別の十六進数を表示し始めていた。彼の心拍停止を、システムが「行政区画の廃止」として処理しようとしているらしい。次になる総理大臣は、彼の死を「承認」するのだろうか。それとも、単なるデータの欠損として「非承認」にするのだろうか。
ドローンが窓の外で、空になった共有型バッテリーを回収していく。雨は止みそうになかった。