ざらつく指、滑らかな双子

──平成0x29A年03月25日 16:10

バックヤードの空気は、カビと埃と、それから微かな磁気の匂いがした。
僕の手の中にある黒いプラスチックの塊、VHSテープは、その角が少しだけ欠けて白くなっている。指先でなぞると、ざらりとした感触が伝わってきた。

『亮、そいつは水平同期が少し甘いかもしれん。キャプチャ時に補正を強めにかけておけ』

頭の中に、祖父の声が響く。僕のパーソナル・エージェント、浅倉宗一郎。生前はテレビ局の映像技師だった。
「わかってるよ、じいちゃん。もう何百本もやってるんだから」
『そう言って、この間はトラッキング調整を忘れてただろうが』

僕は苦笑しながら、テープを再生デッキに押し込んだ。ガシャン、と重たい機械音がして、中の磁気テープが回り始める。モニターに映し出されたのは、粗い粒子がかった、どこかの家庭の誕生会の映像。主役らしい子供が、やたらと大きなケーキを前に笑っている。
僕の仕事は、この「平成記念館」に寄贈された無数の記録メディアをスキャンし、劣化しないデジタルツインとして保存することだ。この手触りも、匂いも、やがては綺麗なデータに置き換えられていく。

「……Asakura-san?」

不意に呼ばれて振り返ると、受付から内線が入っていた。海外からの来訪者が、展示について質問があるらしい。僕は作業を中断し、白衣を羽織って展示フロアへと向かった。

フロアの中央では、数人の観光客が大きな空中ディスプレイを囲んでいた。
ディスプレイには、90年代後半の携帯電話で表示されていたであろう、極彩色でドットの粗い「iモードサイト」のシミュレーターが映っている。

「This is just a simulation, right?」
客の一人が僕に尋ねた。「We want to feel the real… you know, authentic texture」

僕はマニュアル通りの笑顔で頷く。「はい、実機の劣化を防ぐため、ほとんどの展示はデジタルツインを介した体験となっております」
彼らは少しがっかりしたように顔を見合わせた。彼らが求めているのは、滑らかなディスプレイ越しの体験ではなく、僕がさっきまで触れていたような、ざらついた手触りの方なのだろう。

その時、僕の視界の隅に、ポップアップ通知が点灯した。

【第0x8B3D内閣ユニット 内閣総理大臣に任命されました。任期:5分00秒】

またか。半年に一度くらいの頻度で回ってくる、迷惑メールみたいな通知だ。
続いて、本日の閣議案件が網膜に直接ストリーミングされてくる。

【政策変更リクエスト: R-8820-C】
【件名:文化財保護の観点に基づく、一部物理メディアの公開展示の恒久的禁止について】
【概要:VHS、MD、フロッピーディスク等の劣化しやすい物理メディアについて、実物展示を原則禁止し、そのデジタルツインのみを公開対象とする。理由:物理的劣化の不可逆性、および来訪者への体験品質の均質化】

『……合理的だな』と、祖父のエージェントが冷静に分析する。『党ドクトリンの安定性維持アルゴリズムから見れば、承認以外の選択肢はないだろう。不確定要素は排除すべき、だ』

承認。非承認。二つのボタンが、僕の思考領域で点滅している。
合理的。その通りだ。僕がやっている作業そのものが、このリクエストの正しさを証明している。いつかはすべてのテープが再生不能になり、ざらついた手触りも失われる。滑らかなデジタルツインだけが、永遠に残る。

でも。

僕は目の前の観光客を見た。彼らは、本物の「手触り」を求めて、こんな遠い未来の、遠い島国までやってきたのだ。
iモードサイトのシミュレーターを虚な目で見つめる彼らの姿が、僕の決断を鈍らせる。

指先に、さっき触れたVHSテープの、角の欠けたプラスチックの感触が蘇る。
あのざらつき。あの重み。あれが、彼らの言う「オーセンティック」の正体じゃないのか。

『亮、残り1分だ。ドクトリン署名には解読済みの第4プライベートキーを使えば、理由付けの甘さは誤魔化せる』
祖父の声は、ただ事実を述べているだけだった。

僕は、深呼吸を一つして、思考の中で「非承認」のボタンを押した。
理由欄には、こう打ち込む。

「文化的体験価値の源泉は、その不均質性と不可逆性にあるため」

送信。すぐに、首相の任期終了を告げる通知が来た。たった5分間の、誰にも知られない抵抗だった。

僕はバックヤードに戻り、さっきのVHSテープをそっとデッキから取り出した。
ずしりとした重みが、手のひらに心地いい。

このリクエストは、また明日、別の誰かが首相になって、あっさりと承認してしまうのかもしれない。
それでも、僕はこの黒い塊の、ざらついた手触りを守った。少なくとも、今日のところは。
指先に残るプラスチックの感触だけが、僕がこの世界の滑らかさに抗った、唯一の証だった。