折り畳まれた訓練、あるいは年賀状の宛名
──平成0x29A年11月27日 14:30
平成0x29A年11月27日、14時30分。旧多摩エリアの第14避難所、もとい小学校の体育館は、底冷えのする静寂に包まれていた。
「拓海、また回覧板が止まってるわよ。自治会のナノ医療パッチ配布リスト、まだ署名が回ってこないの?」
視界の隅、半透明のウィンドウで母さんが小言を言う。佐伯智子、享年62。エージェントとして僕のデバイスに移植されてから五年になる。生前よりも少しだけ世話焼きになった気がするのは、倫理検査の設定が「慈愛」に寄りすぎているせいだろうか。
「僕のせいじゃないよ、母さん。第0x7FF内閣ユニットの意思決定アルゴリズムが、さっきから『降雨確率とカーボンクレジット排出枠の相関性』について無限ループしてるんだ。党ドクトリンの最新パッチが、今の湿度の解釈を間違えてるらしい」
僕は手に持った木製の回覧板――平成エミュレートの象徴的な小道具だ――を指で叩いた。中には紙の書類が挟まっている。訓練用のナノ医療パッチを配布するための受領印欄だ。今の社会では、こうしたアナログな手続きを「儀式」として行うことで、アルゴリズムの署名が走りやすくなるという都市伝説がある。
「冬の防災訓練なのにね。みんな体育館の床に座って、iモード風の待機画面を見つめたまま固まってるわ」
母さんの言う通り、参加者の市民たちは所在なげにガラケー型の端末をいじったり、AR広告の「お歳暮特集」を眺めたりしている。本来なら14時には避難訓練が開始され、模擬負傷者にナノ医療パッチを貼付するデモンストレーションが終わっているはずだった。
僕は手元の『カーボンクレジット個人台帳』を更新した。呼吸と体温維持で、僕の排出枠がミリ単位で削られていく。この停滞した時間も、すべては「党」が定めた社会安定化プロセスの欠片だ。数十万の内閣ユニットのどこかで、誰かがランダムに5分間だけの総理大臣に任命され、意味もわからず「承認」のボタンを押すのを待つしかない。
「拓海、そんなことより年賀状よ。今年のデザイン、もう決めたの? 『党』のロゴを四隅に入れるのは古いって、隣の奥さんのエージェントが言ってたわよ」
「まだ11月だよ、母さん。それに、遺伝子ネットワークの照合で親族には自動送信されるんだから、わざわざ選ぶ必要なんて……」
「ダメよ。手書きの風合いをエミュレートしたフォントを使わないと、誠意が伝わらないわ。それが平成の流儀でしょう?」
母さんの説教が熱を帯び始めた頃、ようやく僕の端末が「パケ死」寸前のひ弱な電子音で鳴った。iモードの着信メロディだ。画面には『閣議決定:第0x7FF内閣ユニット 承認済』の文字が躍っている。どこかの誰かが、5分間の権限でこの停滞を終わらせたらしい。暗号化されたアルゴリズム署名が、体育館の空気をわずかに震わせた気がした。
「あ、動いた。やっとパッチが配れる」
僕は回覧板を隣の老人に手渡し、備品箱から銀色の小袋を取り出した。ナノ医療パッチ。貼るだけで細胞の損傷を走査・修復するハイテクの塊だが、パッケージにはなぜか「平成10年度版」を模したレトロなラベルが貼られている。
訓練が始まると、人々は機械的に動き出した。避難経路を確認し、負傷者役の腕にパッチを貼る。誰もが慣れた手つきで、しかし虚無感を隠そうともせずに。皇室遺伝子のネットワークが、僕らの活動を静かに見守っているはずだが、誰もそれを口に出すことはない。ただ、微かな連帯感だけが、冬の空気の中に漂っている。
「拓海、年賀状の宛名、私の分も作っておいてね。もう会えない人たちにも、データだけは送っておきたいから」
母さんの声が少しだけ小さくなった。僕は頷き、台帳の端に「年賀状の準備」とメモした。アルゴリズムが導き出す「最適な幸福」の中では、死者への挨拶もまた、不可欠なルーチンの一つだ。
体育館の窓の外では、エミュレートされた夕焼けが、現実よりも少しだけ鮮やかなオレンジ色で街を染め始めていた。訓練の終了を告げるサイレンが鳴る。結局、何のための訓練だったのかは誰も理解していない。それでも、僕らは「平成」という名の長い長い午後を、淡々と生き続けている。