十五時三十分、ノイズの向こうの14106

──平成0x29A年07月09日 15:30

 平成0x29A年7月09日、15時30分。定刻通り、第22防災ブロックの広域避難訓練が始まった。

「訓練、訓練。ただいま、大規模な地殻変動を検知しました。住民の皆様は、直ちに指定の自動運転シャトルへ乗車してください」

 街頭のスピーカーから、少し鼻にかかったような合成音声アナウンスが流れる。平成の初期、どこかの鉄道駅で使われていた音源をエミュレートしたものだという。その無機質さが、かえって人々の不安を煽るように設計されているのが、今の「党ドクトリン」の流儀らしい。

 私は腰に付けたポケベルが震えるのを感じた。液晶画面には『0709 1530』という数字。訓練開始の合図だ。私はiモード端末を開き、防災専用サイトの掲示板をチェックする。CGIで組まれたテキスト主体の簡素な画面が、通信負荷を抑えるために推奨されている。

「陽菜、シャトルの誘導状況はどうなってる?」

 私は耳元のデバイスに問いかけた。いつもなら、妹の陽菜の弾んだ声が返ってくるはずだった。だが、返ってきたのは、感情の起伏を削ぎ落とした、見知らぬ女の声だった。

『――第8022次法定倫理検査を開始します。人格エージェント「日下部陽菜」は一時停止。これより5分間、代理人格α-4がナビゲーションを担当します』

 胃のあたりが冷たくなる。よりによって、このタイミングか。妹は14歳のまま、このシステムの中に移植された。彼女の奔放な思考が、時折「党」のアルゴリズムに抵触し、こうして抜き打ちの検査が入る。

 広場では、丸みを帯びたデザインの自動運転シャトルが三台、アスファルトの上で急停車していた。避難民役の住民たちが困惑した顔で立ち尽くしている。本来なら、彼らを乗せてブロック境界まで滑らかに走り出すはずの車両だ。

「α-4、シャトルが止まっている。原因を特定しろ」
「……照合中。党中央ドクトリン、セクション402との差分を検出。シャトルの運行アルゴリズムが、現在の皇室遺伝子ネットワークの分布密度と整合しません。運行を承認するには、暗号アルゴリズム署名が必要です」

 最悪だ。システムの末期症状がここでも出ている。古い地図データと、住民の遺伝子情報の微細なズレ。それを「不整合」としてシャトルがフリーズしたのだ。このままだと、訓練は失敗し、私の評価は下がり、陽菜の復帰も遅れるかもしれない。

 その時、ポケベルが再び激しく、長く震えた。
 液晶に表示されたのは、見たこともない文字列だった。
『0xBC3A1-PM-START』

 視界に、金色の透過ウィンドウがポップアップする。第0x1406内閣ユニット。内閣総理大臣・日下部蓮。任期、残り280秒。

「は……?」

 ランダムに割り振られる、5分間だけの最高権限。数十万並列する内閣の一つが、私に回ってきた。目の前には、シャトルの運行再開を求める閣議決定リクエストが浮いている。

『首相、判断を』

 代理人格の声はどこまでも冷ややかだ。私は震える指で、空中にある「承認」のアイコンをタップした。網膜スキャンが走り、私の遺伝子情報がブロックチェーンの連鎖に刻み込まれる。

『閣議決定。アルゴリズムの不整合を例外承認します。署名完了』

 三台のシャトルが、同時に電子音を鳴らして動き出した。住民たちが安堵の表情で車内に吸い込まれていく。私はその様子を、呆然と見守るしかなかった。権力の行使は、実にあっけなく、そして虚しかった。

 やがてポケベルが『PM-END』と表示し、権限の消失を告げる。15時35分。私の短い天下が終わった。

「……お兄ちゃん? 今の、すごかったね。私、真っ暗なところにいたけど、お兄ちゃんのハンコが見えたよ」

 耳元に、懐かしい、少し幼い声が戻ってきた。倫理検査が終わったのだ。代理人格の無機質な響きはどこにもない。

「陽菜……大丈夫だったか?」
「うん。ちょっとだけ、昔のことを思い出してたの。お兄ちゃんと病院の屋上で、ポケベルの打ち方を練習したこととか」

 私は、腰のポケベルを手に取った。訓練終了の通知の後に、一行だけ、数字が並んでいた。
『14106』

 愛してる。平成の恋人たちが使い、病室の妹が私に送り続けてくれた、古い語呂合わせだ。

「党」のアルゴリズムがこれを出したのか、あるいは復帰した陽菜の悪戯か。合成音声のアナウンスが「訓練は終了しました」と告げる中、私は液晶の数字を指でそっとなぞった。世界がどれほど歪んでいても、この五文字の解読だけは、誰にも邪魔されたくなかった。