指先で学ぶ、信頼の質量
──平成0x29A年04月24日 11:00
「いいか、君たち。これは遊びじゃない」
私は、無気力な顔が並ぶ研修室を見渡した。旧霞が関の合同庁舎跡地に建てられたこの施設は、相変わらず空調の効きが悪く、澱んだ空気が眠気を誘う。
机の上には、分厚い紙の束。カーボンクレジット台帳の物理バックアップだ。それと、時代錯誤なプラスチックの箱が一つずつ。
「本日貸与するこのポケベルだが」
一人の研修生が、指先で器用にそれを弾いた。カツン、と乾いた音が響く。何人かがクスクス笑った。
『譲さん。語気が強すぎます。導入はもっと穏やかに』
頭の中に、冷静な妻の声が響く。俺のパーソナル・エージェント、美咲だ。6年前に病で逝ってからも、こうして俺を補佐してくれている。
「……これは、来るべき日のための訓練だ。党ドクトリンによる暗号署名は、もはや砂上の楼閣に等しい。いつ基盤が崩れてもおかしくない。その時、我々が頼れるのは、物理的な記録と、確実な伝達手段だけになる」
『記憶補助アプリを起動。手順B-4を参照しますか?』
「ああ、頼む」心の中で応じる。
「まず台帳の照合から始める。二人一組で、互いの台帳の最終ページにある監査印を確認しろ。インクの滲み具合まで、だ。デジタルデータのように、ハッシュ値で一発OKとはいかんぞ」
研修生たちは、しぶしぶ紙の束に手を伸ばす。パラパラとページをめくる音だけが、室内に満ちた。
「先生」最前列の男が手を挙げた。「ポケベルって、数字しか送れないんですよね? これでどうやって複雑な指示を出すんですか」
「だからこそだ。余計な情報が載らない。改竄の余地もない。伝わるのは『889-51』といった生の数字だけ。意味は、事前に配布したコードブックで確認する。いいか、不便さは、時として信頼性と同義になる」
彼らの顔には「理解不能」と書いてあった。無理もない。生まれた時から、あらゆるものがネットワークで繋がっていた世代だ。切断される恐怖も、そのための備えも、肌感覚では分からないのだろう。
午前の研修が終わり、休憩時間になった。研修生たちは、待ってましたとばかりに休憩室へなだれ込んでいく。そこには、施設に唯一残された旧時代の娯楽機器が置いてある。
プレイステーション2。80年以上前の骨董品だ。
「うおっ、今のコンボ見えたか!」「セーブしとけよ、メモリーカードどこだっけ?」
楽しげな声が聞こえてくる。私は壁に寄りかかり、その光景を眺めた。
『彼ら、アナログの概念が理解できないわけではないようですね』と美咲が言った。
「ああ。ただ、自分たちの仕事と結びついていないだけだ」
『あなたも昔、よくやっていましたね。そのゲーム』
「お前はいつも横で本を読んでただろ」
『見ていましたよ。コントローラーを握るあなたの指先を』
不意に、研修生の一人がこちらに気づき、気まずそうにコントローラーを置いた。
私はゆっくりと彼らに近づき、テレビの前に置かれた小さなプラスチックのカードを指さした。
「それ、なんだか分かるか」
「え? メモリーカードですけど……」
「そうだな」私は頷いた。「君たちが今、必死に守っていた冒険の記録は、すべてその小さなカードの中だ。世界の危機も、手に入れた伝説の剣も、仲間との絆も、全部な」
研修生たちは、ゲームの画面と、手の中の小さなカードを交互に見た。
私は続けた。
「我々が今日、指がインクで汚れ、目がチカチカするまでめくっていたあの分厚い台帳は、この国全体の記録だ。君たちは、自分の冒険の記録よりも信用できない仕組みに、この国の記録を預けておけるか?」
休憩室から、電子音と歓声が消えた。
誰も何も言わない。ただ、何人かが、机の上に置きっぱなしにしてきたカーボンクレジット台帳の、その物理的な重さを思い出そうとするかのように、遠い目をした。
その静寂は、ほんの数秒だったかもしれない。
だが、彼らの指先は、確かに信頼の質量を学び始めたようだった。