誰もいない横丁で、通帳の夢を見る

──平成0x29A年09月17日 01:10

午前一時十分。プラスチックと木目が混じり合う管理室の空気は、フィルターを通って静かに循環している。

「平成レトロ横丁」の無人案内所。私の仕事は、この静寂を守ることだ。

『第参区画、省人化レジ3番、決済モジュールに遅延を検知』

網膜に直接投影されたアラートが、赤く点滅している。またか、とため息が漏れた。

「和泉、ログ見た? サブスク決済の認証でコケてんじゃん。ちゃちゃっと再起動しちゃいなよ」

頭の中に、軽薄なくらい明るい声が響く。二年前に死んだ兄、拓海だ。
私のエージェントになってからも、その調子は変わらない。

「マニュアル通りにやる。根本原因を特定しないと、また起きるから」

私はコンソールの前に座り直し、流れるログの奔流に意識を沈めた。
この横丁は、観光客向けに古き良き「平成」を再現したテーマパークだ。でも、その心臓部は当然、最新の自律分散システムで動いている。古いガワと新しい魂。その軋みが、こういう小さなエラーを生む。

管理室の隅には、緊急連絡用のアナログ端末がオブジェのように置かれている。鈍いグレーのポケベルだ。兄が面白がる。

「なあ、それって数字で『アイシテル』とか送るやつだろ? 今度試してみねえ?」
「システムが完全停止した時しか鳴らないの。鳴ったら、もうおしまい」

軽口を叩きながらも、指はログを解析していく。どうやら特定のサブスク決済プロトコルが、旧式の認証システムと干渉しているらしい。

その時だった。
視界のど真ん中に、荘厳な菊の紋章が浮かび上がった。

『第0x3C81A内閣ユニット 内閣総理大臣に任命されました。任期は日本標準時01:15:00より5分間です』

続けて、一枚の議案がオーバーレイ表示される。

『政策変更リクエスト:決済プロトコルver4.2hへの緊急ダウングレード承認』

「お、総理大臣! やっと来たな、和泉。これ承認すれば、目の前のエラーも一発で直るんじゃね?」

兄の言う通りだった。リクエストの概要には、現在多発している決済遅延への対策だと書かれている。私が今、直面している問題そのものだ。

でも、詳細の項目に、小さな文字で注記があった。
『本措置により、一部の旧式口座連携、特に紙媒体通帳をベースとした認証に一時的な不整合が生じる可能性があります』

「……これ、承認したらどこかで困る人がいるかもしれない」

「大丈夫だって。推奨署名パターンも出てるだろ? 党のお墨付きってやつだ。誰も文句言わねえよ」

兄が指すように、画面の隅にはドクトリン・アルゴリズムが生成した暗号署名の候補が表示されている。これを選べば、思考停止で承認できる。世界は、いつもそうやって回ってきた。

効率のために、古いものを切り捨てる。大きな流れのために、小さな不整合を許容する。
頭では分かっている。でも、なぜか指が動かなかった。

ふと、思い出す。
兄は生前、古いものが好きだった。フィルムカメラで私の写真を撮り、レコードの埃を丁寧に拭っていた。
「お兄ちゃんなら……生きてたら、どうしたかな」

ポツリと漏れた独り言に、エージェントは少しの間、沈黙した。
やがて、いつもより少しだけ静かな声で答える。

「…さあな。でも、もう俺はいないんだ。決めるのは、お前だろ」

私は、承認ボタンから指を離した。代わりに、手元のコンソールを操作する。
ローカルの、物理的な再起動コマンド。システム全体に影響を与えず、この区画の、この3番レジだけを叩き起こす、地味で面倒な手順。

再起動が完了する頃、5分はとっくに過ぎていた。総理の権限は、もう次の誰かに移っている。
決済モジュールのステータスが、緑色の『正常』に変わった。

私は席を立ち、管理室の窓から誰もいない横丁を眺めた。
けばけばしいネオンが、偽物の夜を照らしている。

私の通帳の最後のページには、兄が事故の直前に振り込んでくれた、お年玉の記録がまだ残っている。インクで印字された、ただの数字の羅列。

あの古い仕組みがなければ、受け取れなかったお金だ。

世界の大きな歪みは、きっと治せない。
でも、目の前の小さな歪みを、私は私の手で元に戻した。
それだけで、今は十分な気がした。