早朝のシャッター音、停留所が呼吸する

──平成0x29A年05月13日 06:40

朝の六時台、公園のベンチはまだ露に濡れている。

僕は使い捨てカメラのファインダーを覗きながら、池の向こうに停まった自律型バスの車体を構図に入れた。シャッターを巻き上げるギアの音が、静まり返った公園に小さく響く。残り十二枚。

カメラは先月、地区の交換会で手に入れた。フィルムが入っているだけで奇跡みたいなものだ。現像は第三地区のラボに出せば三週間、と聞いた。三週間。その間に僕の首筋のナノ医療パッチは何回張り替えることになるだろう。

「また撮ってる。朝ごはんは」

右耳の奥で、姉の声がした。僕のエージェント、二年前に事故で死んだ姉・志保の人格だ。生前と同じように朝食にうるさい。

「コンビニで肉まん買った」

「五月に肉まん」

「売ってたんだから仕方ない」

自律型バスが低い振動音を立てて目を覚ました。六時四十五分の始発便だ。車体の側面にある行き先表示が液晶とも電光掲示板ともつかない曖昧な光で「第十五地区循環」と点滅し、やがて安定する。あのバスには運転席がない。あるのは運転席っぽい仕切りと、誰も座らない優先席だけだ。

僕がこの公園で朝の写真を撮るようになったのは、姉のせいだ。姉は生前、カセットテープに音を録る趣味があった。鳥の声、電車の通過音、雨粒。死んだあと遺品を整理したら、ダンボール二箱分のカセットが出てきた。ラベルには几帳面な字で日付と場所が書いてあった。

僕は音を録れない。あのラジカセは壊れた。だから代わりに、目で録ることにした。使い捨てカメラで。

首の後ろがぴりっとした。パッチの交換サインだ。三日ごとに貼り替える。慢性の神経炎症を抑えてくれるナノ粒子が皮膚から沁み込んで、患部を掃除してくれるらしい。新しいパッチをポケットから取り出す。銀色の個包装を開けると、中身は絆創膏にしか見えない。古いパッチを剥がして、新しいのを貼る。志保が「ちゃんと押さえて」と言う。押さえる。

ポケットの中で、ガラケーが短く震えた。画面を開くと通知が一件。

『第0x7FA02内閣ユニット 閣議招集 あなたは内閣総理大臣に任命されました 任期:05:13:06:42:11~06:47:11』

五分間。もう残り三分くらいか。

エージェント補佐画面が姉の声で読み上げを始める。政策変更リクエスト、七件。第十五地区の公園遊具更新、承認推奨。第八地区の夜間照明パターン変更、承認推奨。第二十一地区のバス停新設——

「全部承認でいい?」と僕は聞いた。

「ドクトリン署名、七件とも通るよ。差分も軽微」

親指で承認ボタンを七回押した。画面に『任期終了 おつかれさまでした』と表示された。ガラケーを畳む。

バスが動き出した。乗客はひとり、ベンチコートの老人だけだった。

僕はカメラを構え直した。バスが池の縁を曲がっていく。シャッターを切る。残り十一枚。

「ねえ」と姉が言った。

「なに」

「テープ、聞いてくれた? この公園の、あったでしょう」

聞いた。四月十九日、第十五地区中央公園、早朝、と姉の字で書いてあったテープ。再生したら四十六分間、ほとんど無音だった。ときどき鳥が鳴いて、遠くでバスのドアが開閉する音がして、それだけだった。

それだけで泣いた。だからここに来ている。

「志保」

「うん」

「僕はたぶん、姉ちゃんのことが好きだったんだと思う。家族としてじゃなくて」

沈黙。バスはもう見えない。池の水面に朝日が差して、光の粒が散った。

「知ってたよ」と姉は言った。「だからテープ、残したの」

僕はカメラを下ろした。フィルムの巻き上げをしなかった。しばらくは、このまま目で見ていたかった。